白花国(しらはなのくに)

滝風


第ニ話 亡国に依りし戦士達




「はい、これで終わりです」
「あ……ありがとうございます」
桜花(おうか)早守音(さずね)の処置を受けていた。その手際の良さから、早守音が腕の立つ薬師だということが窺える。──同時に優れた武士であることも先程の争いで証明してしまっているのだが。
「大した怪我はありませんから心配ないと思いますよ。桜花……さん」
桜花でいいです、とかぶりを振ってから、彼女は再びありがとうございます、と付け加えた。
そういえば早守音は治療の間、桜花の体調や自己紹介の補足こそすれ、桜花の素性や目的などの話題には一切触れなかった。あの時「素性は明かせない」と言ったからだろうか、それを察した早守音の気遣い故か、どちらにせよ桜花には有り難いことだった。

「──調子はどうだ」
突然後方から襖の開く音と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り向くと、声の主は相変わらずの仏頂面で桜花らを見下ろしている。
「心配いりませんよ、かすり傷が殆どです」
「……そうか」
早守音の言葉に真時(さねとき)はそれしか答えなかったが、声が少しだけ柔らかくなったのに気付くのは彼の身近なごく僅かの人間だけなのだろう。その「ごく僅か」に属される早守音は、誰にも気付かれないようにそっと笑みをこぼした。「もう少し素直になればいいのに」なんて言うと、彼は決まって余計なお世話だと怒るから。

「早守音、治療が終わったならこの後の軍議に出ろ」
真時が飾り気なく告げると、早守音は了承したと言うように軽く首を振って立ち上がった。
「では桜花、すみませんが暫くこの部屋で待ってもらっても構いませんか?」
「あ、はい! ……軍議、頑張って下さいね真時さん早守音さん!」
早守音は微笑んで、真時と共に襖の向こうへと消えた。



二人が出て行ってしまった後、桜花は一人思案を巡らせていた。
(これからどうしよう……)
あの二人に世話になれるのは僅かな時間だ。その後はどうする……?
ひやりと、嫌な感覚が背中を這い上ってくる。一人になって、急に心細さが戻った。

──自分は、弱い。

けれど無力だから考えるのだ。どうするかを。生きる為に。自分は弱い、でも決して折れてはいけないのだから。


近付く二つの足音。そこから感じられるのは、焦燥。目前の襖が音をたてて開いた。

「お二人共? 随分早く終わったんですね」
「…………面倒なことになった」
驚く桜花に、真時は険しい顔で呟いた。
「面倒なこと……?」
「次の戦に出なければならなくなったんです」
そう言う早守音も、その顔から笑みは消えていた。
「よりによってこの時期か……」
「思っていたより動きが早いですね」
「……それで? “どうする”んだ」
そう言って真時は桜花に向き直った。思いもよらぬ話の振りに、桜花は瞠目する。
「──ここから離れなければならないんです。暫く帰ってはこれません。あなたは、どうしますか?」
引き継がれた早守音の言葉は、先程の不安の実現を意味するものだった。同時に、自分達は遠地に赴くから桜花の世話は出来ない、と、そういう意味も込められている。しかし桜花は、それとは違う選択を見据えていた。
「──私も、一緒に行っていいですか?」
「……は!? お前、自分が何を言っているのか解ってるのか!?」
桜花の予想を逸した答えに、いの一番に反応したのは真時だった。
「……はい、解っているつもりです」
桜花の瞳が、真っ直ぐに真時のそれを射抜く。真時は少し困惑した。それがどういう意味か解っていてみすみす戦場に足を踏み入れる者など、ただの馬鹿だと思っていたから。──それでも彼女は真剣なのだ。真時にはその思考こそ理解し難いものだった。
が、彼の口から真っ先に出てきたものは怒りだった。
「自分の身も守れない者が何を言う! お前のような小娘が戦場に赴くなど聞いたことが──」
ない。そう言おうとした真時は、自分の隣にいる反例を思い出して閉口した。
「いいんじゃないですか、真時」
その張本人が、またいつもの笑みを浮かべている。
「お前まで……解っているのか、俺達には他人の面倒をみている暇はない!」
「ええ、ですから……」
「自分の身は自分で守れ、ということですよね」
間髪入れずに返ってきた返事に、早守音は苦笑し、しかしふと真顔に戻って言った。
「その通りです。私達が貴女を守れる保証は有りません。それでも────?」
行きます。桜花ははっきりと告げた。揺らぎない、強い瞳で。
「……わかりました。構わないでしょう、真時」
「なっ……! 俺はまだ認めていない!」
「でも、本人の意志は固いようですよ?」
真時はそこで桜花を一瞥し、彼女がそう簡単に折れないことを知ると、チッと舌打ちしてそっぽを向いた。
「……勝手にしろ!」


そう。迷惑なのは解っている。危険だということも承知している。───それでも。
立ち止まるわけにはいかない。それが自分勝手な甘えだと知っていても。



──遠くで、法螺貝の汽笛が響いている。桜花は立ち止まって耳を澄ませた。笛の音だけでなく、沢山の足音、話し声──。ここは様々な喧騒の狭間にあった。しかしそれとは対照的に、桜花はただ静かに時に身を委ねていた。音、土、風。全てが初めての感触。新鮮で、柔らかくて。けれどどこか張りつめたような、この感覚。 ──戦場の、空気。
張りつめているのは自分も同じ。

「……恐いですか?」
陣を出ていた早守音が、いつの間にか戻っていた。桜花はゆっくりと首を傾けて空を仰ぐ。
「……恐いと言えば、恐いです。でも不思議と心は静かで……落ち着いてて」
それは深水を湛える泉のよう。小さく波紋を広げては、消えていく。

「──おいお前達、そろそろだぞ」
少し遠くで、真時の呼ぶ声が聞こえた。
「真時も戻ったようですね。……行きましょう」
「────はい」
桜花は首を空から戻して、声のする方に駆ける。──最後に視界の端に映ったのは、少し濁った夜の色だった。



「──じゃあお二人はもう、行ってしまうんですね」
桜花は篝火に照らされた、と鳥ばり梁軍陣の入り口で二人を見送っていた。
「……ああ。お前はここにいろ、残りの兵士も待機しているし安全だろう」
「直ぐに戻りますから、安心して下さいね」
真時と早守音は、そう言って深淵の闇に消えて行った。

二人が行ってしまった後、その場には冷えた静寂が残ったが、桜花はそれを吹き飛ばすように一念発起した。
「あの二人なら大丈夫! 私もやることやらないと!」
独りだと、嘆ける筈がなかった。過ぎた時を想える筈もなかった。それが許されるのは、為すべきことを為してから。
桜花はぎゅっと、小さな拳を握りしめた。



「あのー、お夜食です。よかったら皆様方でお召し上がりになって下さい」
両手をいっぱいに使って大きな盆を運んできた桜花に、陣内に待機していた兵士達は目を丸くした。
「有難ぇけどよ……なんだってあんたこんなとこに来たんだ? 嬢ちゃん」
兵士の一人が盆上の料理を受け取る。桜花は曖昧に笑って、それには答えなかった。
「まだまだあるので、次を持って来ますね!」
元気な声を残して、外へ飛び出す。冷たい風が、桜花の頬をかすめた。
ふと見上げた夜空には、霞んだ下弦の月。 不意に涙が零れそうになって、桜花は慌てて息を大きく吸い込んだ。瞳に留まる涙が、闇夜にぽつんと浮かぶ光を滲ませる。

なにを、失ってしまったのだろう。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
このちっぽけな背中に、背負っていたものはあまりに大きくて。

「――大丈夫……」
大丈夫。まだ出来ることがある。桜花はその寂寞を胸の底に沈め、戦場に赴く戦士達を思った。

止めていた足を動かし、陣に戻ろうとした桜花の背後で小さく土を蹴る音がしたことに、彼女は気付かなかった。
「早く戻ってもう一度皆さんに差し入れを――っ、!?」
突然強い力で口を塞がれ、桜花は助けを求め叫ぼうとした――が、首を圧迫され、あえなく全身の力が抜けていく。そのまま、彼女の意識は重く沈んでいった。

戦場にて、かの刃が真一文字に振り切られた。同時に数人の男達がその場に崩れ落ちる。その中心に佇むのは、伏木真時その人。
刀を収め、空を見つめるその表情は険しかった。
「終わったぞ。そっちはどうだ早守音」
「……なかなか手強いですよ。一筋縄ではいきそうにありませんね」
そう返した早守音は真時の後方、一人の敵兵の前に屈み込んでいた。
「どうです? まだ話す気にはなりませんか」
「……断る! 貴様らに渡す情報はない!!」
その敵兵は武器を取り上げられ、身の自由も奪われていたが、それでもこちらの詰問には応じなかった。
「そうですか……仕方ないですね」
早守音は軽く溜め息をつくと、その敵兵の耳元に唇を寄せ何事か囁いた。彼女の容姿を考えると、普通の男ならここでときめきのひとつやふたつあるものだが、彼の反応はそうではなかった。
「――はっ…話す! 全部言うからそれだけはっ……」
急に顔色を変えすっかり怯えた様子の男を尻目に、早守音はにこやかに振り返った。
「だ、そうです。良かったですね真時」
「……お前……一体何を言った……?」
顔をひきつらせる真時に、早守音は「あなたは知らなくていいことですよ」とまたも艶然と笑った。
(……こいつの敵にだけはなりたくないな……)
背筋に何か薄ら寒いものを感じつつ、真時は気を取り直して敵の男に話を促した。男はおっかなびっくり早守音をちらちら見上げながら、そろそろと話し始めた。


「――――――……」
男の話を聞き終えた後、二人はしばらく閉口していた。が、先に事を起こしたのは真時だった。
「急ぐぞ早守音!!」
自分が乗ってきた馬に再び飛び乗り、真時は手綱を打った。
早守音は出発した真時を一瞥すると、話を聞いた男の縄を長刀で断った。
「貴重な報せ、有難うございました」
「……お前達、今からで間に合うと思っているのか……?」
「間に合う、間に合わないの問題ではありません」
自らも騎馬すると、早守音は振り返りざまに鮮やかに笑った。
「この程度のことをどうにもできないようならば彼も私もこの軍の軍師を務めてはいませんよ」
真時の後を追うべく、早守音はぴしゃりと手綱を打った。


先を駆ける真時の頭には、先程の敵兵の話が巡っていた。
男の話はこんな感じのものだった。
真時と早守音が戦った軍兵は本軍ではない。敵の勢力の大半がこちらには回っていないというのだ。
つまり、この不意打ちの狙いは――
「――俺達の陣か!!」
戦場においての陣営とは、兵士達にとって非常に重要な役割を持つ。その陣を抑えれば敵は形勢を立て直すのが難しくなり、そしてそれを叩くのは容易い。
真時は手綱を握る手に力を込めた。今向かっている陣には、戦のことなど何も分からぬ無力な少女がいるのだから。



真時達の向かう陣にて、桜花は陣の奥、敵の大将を名乗る男に捕らわれていた。口を腕で塞がれ、腕も後ろ手に縛られている状況では、抵抗するどころか声を出すこともかなわない。
「何故お前のような小娘がこんな所にいるかは知らんが……人質としては手頃だ、奴らを抑える武器となってもらうぞ」
「――――……っ!」
――何故、こんなことに? 無知な自分でも解る、この状況は非常にまずい。
桜花の脳裏に、戦場ではどんなことが起こるか分からないという早守音の言葉が蘇る。そうだ。それでもついて行きたいと言ったのは自分だ。だからこれは自業自得というものなのかもしれないが、それで迷惑をこうむる真時や早守音、鳥梁軍の兵士達のことを思うと胸が痛んだ。それに、自分はこんな所で死ぬわけには――
「何だ? 外が騒がしいな……」
桜花の思案は男の声によって遮られた。言われてみれば、先程と比べて外から聞こえる喧騒が大きい気がする。
と、そこに相手側の兵士が一人飛び込んできた。
「総大将!! 奴らが来ました!! 外の兵は壊滅状態で……」
それと同時だった。陣の幕が勢い良く切り裂かれ、そしてそこから見えたものは――
(真時さん! 早守音さん!)
「っ貴様ら……まさかここまで早いとは……それより、外の兵を壊滅だと!?」
「……――貴様は俺達の力量を見誤った。それだけの話だ」
言うがいなや、真時は刀を抜き放った。
「待て!! こちらには人質がいるんだぞ!!」
そう言うと大将の男は桜花を捉える腕に力を込めた。
「…………っ……!!」
苦しげに顔を歪める桜花に、真時は表情を険しくしたかと思うと、次の瞬間彼の足は地を踏み切っていた。
「なっ……っ!」
一瞬の出来事だった。彼が間合いを詰め、敵が桜花を捕まえていた腕に斬りつけるまでに要した時間は、瞬間。
「ぐ……あぁっ!!」
桜花は解放され、体勢を崩して倒れ込みかけたところを早守音が受け止めた。
「早守音! そいつを連れて退け!」
「真時さん!?」
桜花は真時の方を振り返ったが、早守音に手を引っ張られた。
「早く馬に乗って下さい! ここは退きます!」
「でもっ……真時さんが……っ」
「真時なら大丈夫です! 早く!」
「――……っ……」
桜花は従った。こちらに背を向けたままの真時を、一度だけ視界に捉えて。
できることなら、誰にも傷ついてほしくはないのだと。誰にも、傷つけ合ってほしくはないのだと。そう、この戦場という地では思わされる。
――どうか、無事で。

「――行ったか」
早守音の馬が土を蹴る音を聞きつけ、真時は誰に言うでもなく呟いた。対面するのは、先程斬られた左腕を押さえる敵将。
「もう貴様の軍にはまともに戦える兵は残っていないぞ。それでも降参する気はないか」
「ふざけるな!! たとえ片腕であろうと……貴様を倒すのに不足はない!!」
「……そうか」
真時は静かに瞑目すると、研ぎ澄まされた刀身を構え直した。

――合図はなかった。
それでも、踏み込んだのは同時だった。
「――っ……」
敵将の男は刀を落とし、その場に倒れた。
「これが……“神速”を謳われた伏木真時の剣か……」
「――致命傷ではない。お前は生け捕りにさせてもらう」
「……甘い、な……」
その言葉を最後に、男は意識を失った。

真時は溜まっていたものを吐き出すように嘆息すると、その刀を鞘に収めた。
ふと、先程自分の名を叫んでいた少女を思い出した。あの少女は今頃無事に逃げおおせているだろうか。
そう考えかけて、早守音が側にいる限りそれは愚問だということに気がつき、少し自嘲気味に笑った。
何でもいい。この戦は終わった。兵の被害も少なく、何か重大な過失があった訳でもない。――勝ったのだ。
あちこちで上がる喧騒が収まりつつある戦場に、終戦を告げる一陣の風が吹き抜けた。




「――お前は馬鹿か!!」
それは戦の後、帰ってきた真時が桜花に対し、開口一番に放った言葉だった。
「……す、すみません……」
身を小さくして謝罪する桜花に、真時の説教は続いた。
「何事もなかったからいいようなものの、一歩間違えれば命を落としていたかもしれないんだぞ!!」
「まあ真時、戦にも勝利したことですし……」
「それは結果論だ! 大体お前はいつもこういう時だけ楽観的で……」
早守音も交えた軽い論争を、桜花はしばらくの間見つめ、そして静かに切り出した。

「真時さん、早守音さん。お話しておきたいことがあるんです」
その玲瓏とした声に、二人は言い争いを止め桜花に向き直った。
「――何だ」

「――この軍……鳥梁軍はもしや“亡国軍”ではありませんか?」
その言葉に真時と早守音は瞬時に身を硬くし、先程までの穏やかな表情を改めた。
亡国軍。陥落してしまった国を建て直そうと、反徒と戦い続ける軍。
「――何故そう思うのですか?」
「そしてそれをお前が知ってどうする!」

「――――…………」

桜花はその場に座り込み、両手を床につけて深々と頭を下げた。ぎょっとする二人に、桜花はゆっくりと面を上げその言葉を放った。
「伏木真時殿、早守音殿、この度は幾度とこの身を御護り下さったこと、ほんに有り難く存じます。改めてご紹介に預かります、白花桜花(しらはなのおうか)と申します。──恐悦ながら我が国、しらはなの白花くに国の“一姫”にございます」

桜花がそれを言い終えた時、真時は絶句した。一姫、だと?聞き間違いでないのなら、それは自分達が取り戻そうとしている、亡国を治めていた王の長子、すなわち正当後継者ということになる。
「……成る程……それなら合点がいきますね」
「早守音!? 信じるのか!?」
「城が陥落した時期と桜花を見つけた時期は一致します。それに桜花が最初着ていた服……大分傷んでいましたが決して質素な物ではありませんでした」
「っ……!」
「……信じていただけないかもしれません。今の私は姫だという証拠を持ち合わせてはいないのですから。……しかし、これが事実なら、あなた方にとって『私』は無益でないのではありませんか……?」

もしそれが本当ならば、桜花の存在は「無益でない」どころではない。国を取り戻す切り札にもなりえる。
「……真時」
「……ああ」
二人は改まり、桜花の前で鮮やかに跪拝した。
「私達の軍には貴女が必要です、桜花姫。どうか力をお貸し下さい」
「――はい。及ばぬ身ながら、国の為尽力させて頂きます」
そう言って真時と早守音を真っ直ぐに射抜く瞳が持つ気高さは、まさしく王族のそれだった。


「――さて、それじゃこれで決まりですね!」
軽く手を打ち、朗らかに笑った桜花は、先程とあまりに違い過ぎて二人は拍子抜けした。
「――そうだ、小刀みたいなものありますか?」
「? 脇差しならありますが……一体何を?」
早守音が出してきた脇差しを受け取ると、桜花は自らの長い髪を後ろでたくし上げ、その根元付近に刃を押し当てた。
「! ――何を――」
二人が止める間もなく、バツッと音を立てて彼女の髪は断たれていた。

はらり、ひらりと、漆黒の髪が舞い落ちてゆく。その中で微笑むのは、確かに――。

「これが私の“覚悟”です」

その姿に、真時と早守音は確信した。この少女が、我らが国の姫なのだと。
「――改めて、これからよろしくお願いします、真時さん早守音さん!」

真時は気付いているか知らないが、早守音は、城を焼かれ、国を奪われてなお、笑い、輝けるこの少女を美しいと、そう思った。



JACKPOT60号掲載
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