滝風 少女は、走っていた。着物は破れ、手足をぼろぼろにしながらも、灯りのない夜道を、ずっと。追っ手はまだない。だが気付かれるのも時間の問題だろう。 逃げなければ。自分が捕まれば、全てが終わりになる。心臓が破けそうになっても、足が悲鳴を上げていても、走ることを止めてはいけない。逃げなければ────。 「──あっ!」 目が利かない暗闇の中、木の根に足を取られ転んでしまった。 「……っ……!」 その時、少女は初めて後ろを振り返った。そこで見た光景を、少女はきっと永遠に忘れはしないだろう。 今は見る影もない、焼け落ちた城。崩れ去った、栄華。失った、笑顔。全てを焼き尽くすような炎が、空さえも朱く染め上げていた。 庭に咲いていた桜、来年も咲くかな。 咲くといいな。 咲かないよ。だってもう、すべてが無くなってしまったから……。 第一話 赤炎に追われし白花の君 荒れ果てた村に一人、ある女性が佇んでいた。焼け落ちた家々を眺める目は被っている薄手の着物で隠され、その心情は読み取れない。閑散とした村に、乾いた風の音だけが響いていた。しかし、静寂は突然の無粋な声に遮られる。 「おい、そこの女! そこで何してる!」 数人のなりの悪い男達が、物騒に刀を腰に差し現れた。いきなり声をかけられた女性は大して動じた様子も見せず、静かに口を開く。 「そういう貴方がたはこのような所で何を……?」 「はっ、俺たちゃ盗賊よ、盗賊! この村も俺達が焼き払ってやったのよ」 「……そうですか……」 「そうそう、だからあんたみたいな若い女がこんな所うろうろしてちゃ危ないよ?」 その言葉を合図に、周りの男達が刀を抜く。場が張り詰めた空気に包まれたその時、突然の風が辺りを覆った。その拍子に女性のかづき被衣がその手から放れ、晴天の空に舞い上がった。布の下に隠れていた顔が、日の目を浴びる。 年は二十くらいであろうか。このご時世には珍しい短い髪を肩に掛け、背中には長い包みを背負っている。端正な顔立ちの上に、穏やかな、しかし強い意志を感じさせられる瞳で、盗賊達に微笑みを向けていた。 「すげぇ上玉だ! これなら高値で売れるぜ、やっちまえお前らっ!!」と、盗賊の一人が先陣を斬って飛び出し、それにつられて残りの男達も駆け出していく。ただ一人、盗賊の頭と思われる男を除いて。 「ま……待てお前ら! そいつは……」 男が叫んだ時にはもう遅かった。女性は素早く背中の紐を解き、その中身に手を伸ばす────。 「──やれやれ、女一人に随分と乱暴な処遇ですね」 一瞬の出来事だった。微笑を浮かべながらも、凄絶な雰囲気を身に纏う彼女の手には、女性が扱うには少し大振りのなぎなた長刀が握られていた。そして、彼女の足下に無様に転がる盗賊の男達。その全員から漏れる呻き声。その場には、もう二人の人間しか残っていなかった。 「その顔、その長刀……お前、珠洲将か……!」 残された男が顔を歪めて呟く。 「おや? 貴方のような盗賊ふぜいが私の名をご存知でしたか?」 「俺は昔武士だったからな…。戦場に立つあんたの姿を見たことがある」 「成る程……残念、ですね」 「な……!?」 男には、瞬きの機会すら与えられはしなかった。場に立つ二人が一人になった。 崩れ去る男、それを背中に静かに女性は微笑った。 「──残念です。武士としてお会いしていたなら、誇りを賭して刃を交えたというものを」 女性は小さく溜め息をつくと、地面に落ちた被衣を拾い、丁寧に手で払う。そしてそれを被ると、その場を立ち去ろうとした。が、何かの気配が彼女の動きを止める。女性はきびす踵を返し、一軒の民家に近付いていく。民家といっても一度焼かれてしまい原型を留めておらず、もちろん人も住んではいない。そんな所から、彼女は何かを聞きつけたようだった。 朽ちた戸を静かに開けると、最初女性は少し驚き、しばらくすると柔らかく笑った。 「どうなさったんですか? お嬢さん」 そこには、擦り切れた着物を着てうずくまる少女がいた。少女は顔を上げて目の前の人物を見つめる。 「……あなた、は────」 少女は呆然と、自分に話しかけた女性を眺めていた。 「……さん、……お嬢さん?」 「……あ、はいっ!」 女性の呼び掛けにはっと意識を戻す。 「……大丈夫ですか? 怪我をしていますよ」 「い……いえ、大丈夫……です」 そう視線を逸らした少女を、女性はじっと見つめた。手足には小さな擦り傷が沢山付いており、顔も煤けている。着物も所々破け、土やら泥やらが目立った。腰まで伸びる長い黒髪も、あちこちほつれてしまっている。 女性は少し考える動作をしたかと思うと、いきなり少女の腕を掴んで引っ張り上げた。 「……!? な……何ですか……!?」 「……来て下さい」 女性は相変わらずその微笑を消さず、少女の腕を掴んだまま歩き出した。 今まで暗い所にいた分、突然の光が少女の目に痛く突き刺さる。もう一方の空いた手を目にあてながら、彼女は女性に叫ぶ。 「な……何なんですか……!? は、放して下さいっ!」 それを聞いて女性はぴたりと歩みを止め、掴んでいた腕を放した。 「……すみません、でもこのような危険な場所に貴女のようなお嬢さんを置いていく訳にはいきませんから。……心配なさらずとも私は怪しいものではありません。……まあ自分で不審者と名乗る不審者はまずいないでしょうけど」 「…………は、はい……」 女性の明るい言葉に少し落ち着きを取り戻したようで、少女は大人しく女性に従った。 それを見ると女性は、被っている着物を取り少女の肩に羽織らせた。 「傷の手当てをさせて下さい。これでも私は薬に詳しいんです」 そう言って再び歩き出す女性に、少女は背中越しに呼び掛ける。 「あ……ありがとうございます……あの、さっきのは……?」 女性は顔だけを後ろに向けて答える。 「やはり聞こえていましたか。あれはこの辺りの野盗です。この村を焼き討ちしたのもそうですが、近頃勢力を伸ばしていたようなので……私が出向かせて頂きました」 「……先ほどから思っていたんですが……あなたは何者なんですか? 珠洲将ということは……武将さま……?」 その言葉を聞くと、女性はクスクスと愉快そうに笑った。 「……ええ、武将……軍師ですね。珠洲将は主上から頂いた名です。本名は早守音というので、そちらで呼んで頂けると嬉しいですが……そういえばお嬢さん、貴女の名を訊いていませんでしたね」 「…………桜花、です」 「おうか?」 「桜の花と書いておうかと読むんです」 「桜花……とてもいい名前ですね。桜はこの国の象徴でもありますし」 早守音と名乗った女性はそう言って上を見上げた。桜花は今の今まで気付いていなかったが、そこには満開の花を咲かせる立派な桜の木が立っていた。村は焼かれてしまったのに、まるで必死に村をつなぎ止めるように、その桜は白い花弁を散らしていた。 「村を覆い尽くした炎もここまでは足を伸ばさなかったようです。……綺麗ですね」 桜が、舞い落ちる。どこまでも白く、無垢に。美しかった。幾百に踊る花弁が、春の空を彩っていた。桜に心を奪われ、桜花は無意識の内に呟いていた。 「枯れた桜も……いつかは咲くでしょうか?」 早守音は何も言わなかったが、その瞳は優しく笑っていた。 桜花たちが静かな花見を始めて少し経った頃、早守音はふと何かの足音を聞き取った。散った花弁の道を歩いてくる、足音──。が、早守音はふぅと溜め息を一つつくと、足音の人物に呼びかけるように少し大きめの声で言った。 「そんなところにいないでこちらに来たらどうです? 真時」 すると、桜の木の向こうから、一人の青年が姿を現した。 「──任務は終わったのか? 早守音」 真時と呼ばれたその青年は二十代前半ほどの容姿に、真っ直ぐな髪と怯みのない瞳を持っていた。そこからも意志の強い人物だと窺える。 「ええ。真時、向こうに兵を回してくれませんか? のびている賊がいるはずです」 「わかった。……しかしさっきから気になってはいたが、その娘は誰だ? 何処から連れてきた」 早守音が口を開く前に、桜花は自ら話し出した。 「名は……桜花と申します。何故ここにいたかは……言えません」 「……何?」 桜花の言葉に、青年は眉をひそめた。 「何故言えない? お前、どこの者だ」 「………………。」 俯いて無言を通す桜花に更に詰問しようとする青年を、早守音が手で制した。 「早守音!」 「少し落ち着いて下さい真時。この少女が我らに害を及ぼすように見えますか?」 「どれほど人畜無害に見えようとお前という例がある限り信用はできない!」 「……言ってくれますね……。とにかく、怪我人を放っておくほど私も非情ではありません」 「……怪我だと?」 そこで初めて、真時は桜花の手の怪我に気付いた。次いで彼女が裸足なことも。当然足の裏はぼろぼろだろう。 桜花は自分に向けられた視線に居心地悪そうにじっと地面を見つめていたが、暫くするうちに淀みのない声が降ってきた。 「……いいだろう。早守音、お前に任せる」 顔を上げると、ばつの悪そうにそっぽを向く青年がいた。桜花は、不器用だけど悪い人じゃないんだ、と心の中で呟いた。 「さて、真時の許可を取ったのはいいとして……本人の意志をまだ聞いていませんでしたね。どうでしょう? 私達と来ますか?」 それを聞いて、そんな重要なことを訊いてなかったのかと驚き呆れる青年をよそに、早守音は桜花に向き直った。桜花は、一瞬迷うような素振りを見せた。が、二人の顔を交互に見つめ、意を決したように顔を上げた。 「……はい! お願いします!」 女性と青年にとっては、出自の分からない少女を連れ帰る。少女にとっては、出会ったばかりの武士について行く。それぞれ思うところは違うだろうが、三人に共有するのは「信用」という感情だった。 「これで決まりですね。……さ、そうと決まれば自己紹介して下さい、真時」 「……な、俺がか?」 「他に誰がいるんです」 早守音に促された青年は桜花に向き直り、コホンと軽く咳払いしてから話し始めた。 「……俺は伏木真時という。鳥梁軍の軍師を務めさせてもらっている者だ。年は二十一になる」 「……年まで紹介するんですか? なら私も言った方がいいんでしょうか」 あくまで大真面目に答えた青年に、早守音は小さく笑いを堪えながら話に入った。真時の生真面目さが面白かったのであろうか。彼もそんな早守音の態度には気付いているらしく、少しばかり機嫌を悪くしたようにそっけなく返す。 「お前の年なんて知らない方がこれから先幸せに暮らせると俺は思うがな」 「大袈裟ですね、そんなにおかしいですか? ……桜花さん、私はいくつに見えます?」 全く会話についていけず首を傾げていた桜花に、突然話が振られる。 「……え? ……〜っと……」 桜花は改めて早守音という女性を眺めた。その落ち着いた物腰を抜きにして、顔だけを見れば二十、あるいはそれより少し若いくらいに思える。自分とそう変わらないかもしれない。桜花は正直にその旨を伝えると、早守音はクスクス笑い、対照的に真時は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。 「……? あの……私、何か失礼なことでも……?」 訳が分からず二人の様子を窺う桜花に、早守音が違いますよ、と弁明をしようとすると、真時がこれまた苦々しい顔で言い放った。 「……こいつは二十六! 俺より年上なんだよ!」 真時の言葉に、つい先ほど自分とそう変わらない年だと判断した人物の顔をまじまじと眺めた。その人物はにっこりと笑っている。それが、真時の言ったことが決して嘘ではないと雄弁に語っていた。 二十、六。自分の年は、十六。 ……………………。 「えええぇ〜〜〜〜っ!?」 春。自分と同じ名を持つ少女の大声を聴き、桜は楽しげに花を揺らした。 JACKPOT59号掲載 背景画像:空色地図様 |