滝風 俺は、ある墓の前に立ち尽くしていた。両手いっぱいの花束を抱えて。──今日は、墓参りだ。 空はあんなにも青く、澄んでいた。 「──だから、医者になんかならないって言ってるだろ!!」 「秋久!」 「俺はあんたとは違う! ほっといてくれ!!」 怒り心頭気味に後ろ手にドアを閉めて部屋を飛び出す。やはり、院長室なんかに行ってもロクなことがなかった。 長い廊下を歩いていると、嫌でも院内通告の貼り紙が目につく。そこに書かれた、「仙波病院」の文字は益々俺のイライラを募らせた。ここ、私立仙波病院は俺の父が院長を務める病院なのだ。 俺は父と意見が合わなかった。父は仕事で忙しく、ろくに家に帰らなかったが、それでも顔を見合わす度に衝突していた。理由は父が病院の院長であるのに、俺は医者が大嫌いだったからだ。 病院に長く居ると、色々なものが見えてくる。医者の無力さ、金や権力への汚さ……数え上げればきりがない。 そんな訳だから、今日も俺は父と喧嘩し、部屋を飛び出して来たのだった。 そんなことを考えながら院内を歩いていると、いつの間にか一般の病棟まで来ていた。子供が多いから小児科だろう。 そのまま廊下を歩いていると、急に何かが足にぶつかった。驚いて見下ろすと、五歳くらいの男の子が泣きそうな顔をしてこちらを見上げていた。 「っと……痛かったか? ごめんな」 怖がらせないようにしゃがんで頭を撫でると、はにかむように笑ってくれた。 そういう笑顔を見るのが少し、好きだった。 「ごめんなさい! 大丈夫?」 そう言いながら、向こうから早足で誰かが歩いてくる。……俺と同い年くらいの少女だった。と、自分で考えて少し違和感を覚える。格好からして、その少女は入院患者だ。俺と同い年の少女が、どうして小児科にいるのだろう。 「だめだよ、病院の廊下走っちゃ」 「ごめんなさい……」 少女は男の子を軽くたしなめたが、すぐに「じゃ次は違う遊びしようね」と笑った。 「ここじゃ見ない顔だな。遊んでやってるのか?」 俺が問いかけると、少女は顔を上げて元気に笑った。 「うん、最近別の病院から移って来たの! 自分の病室は別の所にあるんだけど、ここは賑やかで楽しいから」 「ふーん……」 あえて病名は訊かなかった。入院してくる理由なんて十人十色だ。いちいち訊いてたらきりがない。 「いい病院だね、ここ」 「……そうか?」 少女がふと発した言葉に、訝しんで聞き返す。俺にはそうは思えなかったから。 「うん、先生もみんないい人ばかりだよ。そうそう、特に院長せんせ……」 「やめろ!!」 続けた彼女の言葉を、思わず遮る。想像以上に大きな声を出していたようで、辺りの人が振り返った。 「ご、ごめんなさい……」 驚いたように謝罪する少女に、はっと我に返る。 「あ……いや、ごめん」 何だかばつが悪くなり、俺はその少女に背を向けて歩き出す。 「怒鳴って悪かった。帰るよ」 まだ何か言いたげな少女を残し、病棟の出口を目指した。よく考えれば彼女は医療業界の裏を知らない。ただ単純に『表の仙波病院』を褒めただけだ。ちょっとしたことで熱くなって……俺もまだまだ子供ってことだな。 数日後、俺はまた同じ病棟に足を運んでいた。初対面の少女に八つ当たりしたのが後ろめたかったのか、とにかくもう一度会いたいと思った。あの、笑顔が印象的な少女に。 こうやって闇雲に歩き回ってるだけじゃまさか見つからないだろうと駄目もとで捜していたが、少女は案外簡単に見つかった。先日と同じように、子供達に囲まれている。 「あ、この前の!」 彼女は俺に気がつくと、嬉しそうに駆け寄って来た。てっきり怒っているかとも思っていたが、人柄なのか、さして気にしていないようだった。 「ねえ、そういえば名前、訊いてなかったよね? わたし高階幸! あなたは?」 「……俺、は……」 名字は名乗らない方がいいだろう。仙波なんてよくある名字じゃない。一発で病院関係者だとバレる。 「……秋久」 「そっか、よろしく秋久くん!」 笑顔で差し伸べられた手を、少し遅れて握り返した。 「……ああ、よろしく」 今時握手というのも少し照れくさかったが、その時の俺は何だか、嬉しいようなくすぐったいような、そんな気分にとらわれていた。それが、彼女の笑顔の力だったのかもしれない。今は、そんな風に思う。 「……喉渇いたな。あんた、何がいい?」 ふとそう思い、休憩所の自販機に近寄って、そのディスプレイを眺める。 「え? あ、わたしはいいよ、今お金持ってないし」 「奢ってやるよ」 「い、いいよいいよそんな!」 益々慌てふためく彼女に、財布から二人分の小銭を出しながら言ってやる。 「遠慮すんなって。こういうのは素直に受け取っとくもんなんだよ」 「……ありがとう」 自販機を見ていた背中越しに、嬉しそうな謝礼が返ってきた。百二十円でそれが聞けるのなら、存外悪くない。 「じゃ、オレンジジュース」 オレンジジュースか。じゃ俺はコーヒーにでもするかな。 小銭を入れてボタンを押し、缶を取り出すという一連の動作を行ってから、よく冷えたオレンジジュースを彼女に渡そうとする。 「ほら」 「ありが……」 彼女が言い終わる前に、その言葉はカーンという小気味良い音に遮られた。渡しかけた缶ジュースが、堅い床にぶつかる音に。 「ご、ごめんなさい!」 すぐに彼女は転がった缶を追ったが、俺にはその出来事が妙に頭に引っかかった。 缶は、俺から彼女に渡る間に落ちた? いや、違う。缶はもう彼女に手渡されていた。それが、彼女の指からすり抜けた。その動作がどうにも──不自然だったのだ。 だから、訊いてみた。何かの症状か、薬の副作用なのかと思って。 「あんた、何の病気なんだ?」 その言葉に、一瞬、缶を拾い上げる手が止まる。 「な、何でもないよ。長くて忘れちゃったし!」 「忘れたって──おい!」 俺が止める間もなく、彼女は小走りに駆け出していた。 「今日はもう帰るよ! ジュース、ありがとう!」 「ちょっと待……」 「またお話してね、秋久くん!」 既に彼女の声は遠く、もう呼び掛けても届きそうになかった。 「何なんだ一体……」 彼女が去った後、一人冷たいアイスコーヒーの蓋を開けて一服する。この辺りは休憩所になっているが、今の時間帯は人があまり集まらない。静かで考え事には最適だった。 「……おかしかったよな。あの態度」 自分に言い聞かせるようにそう呟いてみる。そう、おかしかったのだ、先程の彼女は。 そこまで思案すると、急に何ともいえない感覚に襲われた。──それは違和感という名の、奇妙な感覚。 半分ほど残ったコーヒーを一気飲みで干し、思い立ったように立ち上がる。非常に気は進まないがこの方法が一番手っ取り早い。俺は空き缶をゴミ箱に押し込み、足早に歩き始めた。 「──秋久。珍しいな、お前が呼びつけもないのにここに来るなんて」 父は、机に詰まれた大量の書類を整理しているところだった。げんなりして天井を仰ぐと、扉の上のプレートに書かれた「院長室」という文字が目に入る。……そうだ。父にしか訊けないことがある。 「俺だって好きで来てねぇよ。親父、あんたに訊きたいことがある」 「……訊きたいこと?」 初めて話したときの口ぶりからして、彼女は父に会ったことがあるのだろう。──それなら。 「高階幸って患者知ってるか?」 ぴたりと、書類を処理する手が止まる。 「──……彼女に、会ったのか?」 ここにも、強い違和感。じりじりと嫌な予感が背筋を這い登ってくる。 「ああ。……なあ、あいつ何の病気なんだ?」 ゆっくりと、父は書類を置いて振り返った。 「──彼女は──……」 そこで俺が聞いたのは、嘘のような、嘘であってくれと願うような、そんな残酷な真実だった──── 俺はある病室の窓際で、椅子に座ってぼんやり外を見ていた。そのすぐ隣には、ベッドに座って同じように窓の外を眺める少女。 「わかってるのか……?」 少女はゆっくりと、俺の方を向いて微笑んだ。 彼女は、高階幸は、あと三ヶ月しか生きられない。 院長室での、父の言葉が蘇る。 「高階幸の体は──もう病魔に蝕み尽くされている」 「!? とてもそんな風には……」 「ああ、悪性は低いが発見が遅れると手遅れになることもある。症状には手足の筋肉の弛緩などが上げられるが」 はっとして、あの時の彼女の不自然な動作を思い出す。違和感という名のパズルピースが、音を立ててはまっていった。 父は言いにくそうに、少し間をあけてから口を開いた。そんな残酷な響きを、俺は聞きたくなんかなかったのに。 「高階幸は──末期症状者なんだ」 一瞬何を言われたか解らず絶句した俺に、父は続けて言葉を紡いだ。 「彼女は治療の為にうちの病院に来たんじゃない。ホスピスに来たんだ」 ────ホスピス。……彼女、が? 「……あと、どれくらい……?」 俺の力ない言葉に父が告げた、残酷な数字は─── 「三ヶ月だぞ!? あと三ヶ月、で……」 その先を口にしてしまうのを恐れ、口をつぐんだ俺に、彼女はやはりその笑顔を崩さなかった。 「……っ…なんで…」 なぜ。 「そんなヘラヘラ笑ってんだよ……」 彼女はとても、優しく澄んだ瞳で俺を見ていた。 なぜ笑うのだろう。彼女は知っている。何もかも。──それでなぜ、そうやって笑っていられる? 「……わたしね、本当はやりたいこと、もっといっぱいあるんだよ。学校も行って、勉強とか部活とか頑張って……恋も、してみたりして」 彼女は、そこで一旦間をおいて、窓の向こうの夕焼け空を見つめた。燃える夕陽が、病室に朱い光の欠片を投げ込んでいた。 「諦めたことなんか、ないよ。そして、だからこそ生きるの。笑うの。わたしにできる精一杯の今日を、過ごすの。……それが生きるってことだと思うから。」 そう言った彼女の横顔は凛としていて、惹きつけられたように目が離せなかった。 ……ああ、そうか。だから彼女はこんなにも綺麗に輝くのだ。俺にはない、生命の一瞬の煌めきを持っているから。 「……幸」 「うん?」 「俺、この病院の院長の息子なんだ」 彼女は少し瞠目したが、すぐに微笑んで「そっか」と頷いた。 「俺、医者になるよ」 真っ直ぐなその少女の瞳を、負けないくらい真っ直ぐに見つめ返して。負けないくらい、強く輝く意志を持って。 「医者なんか大っ嫌いだった。でも……」 それにしか、救えないものがあるのだ。確かに、医者は時に無力だ。けれど今の俺はもっと無力だから。──だから大嫌いな医者にもなってやる。俺が空しく生きた今日は、誰かが必死に願った明日かもしれないから。 「……うん、待ってる」 今までに見た最高の笑顔で、彼女は自らの右手の小指を差し出した。すぐに意図を理解して、俺も小指を同じように差し出す。とても彼女らしいと、思わず笑みがこぼれた。 互いの指が、重なる。 それは、約束。あの日沈んでゆく夕陽の中で誓った、彼女とのたったひとつの、“約束”────。 ──青々とした空の下、俺は彼女、高階幸の墓前に佇んでいた。持ってきた花を整えて、供花筒に供える。 この花は、病院中の彼女と親交があった人々からの寄付で買ったものだ。 彼女はちゃんと遺したのだ。大切なものを。 高階幸は一ヶ月前、眠るように逝った。 苦しみなど欠片もない、安らかな死だったという。確か、俺が見た最後の彼女の顔は、やはり笑顔だったように思う。 彼女は────最期まで。 石畳にしゃがみこみ、墓標に刻まれた彼女の名をそっとなぞる。 ──君は、幸せでしたか。この名前の通りに。 立ち上がり、抜けるような空を振り仰ぐ。そっと笑うと、空も笑い返してくれた気がした。 「……そろそろ行かなきゃな。親父との講習の時間だ」 目指しているものがある。一人の少女との、大切な約束と共に。 頑張ってるよ。 俺はいま、生きているから。 JACKPOT59号掲載 背景画像:空に咲く花様 |