しあわせの風景

               涼露


 
 八月とともに大陸東端の島国特有のとにかく蒸し暑い夏は過ぎ去ったが、それと入れ違いにやってきた暖かな秋晴れの日々は十一月が終わるまで続いた。
 これはひたすら暖かかった秋が突然去り、一気に凍えるような寒さに襲われた十二月の話である。


 凍てつくような風が吹くなか、拓は両手に息を吐きながら家へと歩いていた。学校からの帰り道、考えるは四日後に迫った絵理の誕生日のことである。
 絵理というのは高校に入ってしばらくしてから仲良くさせてもらっている、いわゆる彼女だ。ちなみに、自覚していないがそこそこの顔と性格での拓は、絵理との関係がクラスメイトにバレたときはショックを受けた女子から冷たい扱いを受けた(すぐに応援してもらえるようになったが)。
 早足で歩きながら絵理は何だったら喜んでくれるだろうかと考え、しかしなかなか思い浮かばない。そもそもただの高校生にすぎない自分ではあまり高価な物は買ってあげられないのだが、もしお金があっても絵理はそれを喜ばないような気がする。ブランド物のバッグやキラキラのアクセサリーより二人で映画を観に行ったりする方が好きな女なのだ。もっとも、そういうところも好きなのだが。

 楽しいデートに連れて行ってあげよう……でも、どこがいいだろう? デートだけで喜んでもらえるだろうか。やっぱりプレゼントは何があっても用意するべきだろう。プレゼント……何がいいのだろう。
 まとまらない思考をグルグル巡らせ、横断歩道を渡る。
しかし最後に行こうと思う場所は決まっている。二人の思い出の場所。……ちょっと行くのは大変かもしれないけれど、見せたい物もある。少し無理してでも行く気だ。

 などと考えていると、不意に拓の体は宙に舞った。真下に黒い大型乗用車が見える。その状況を把握する前に、拓は意識を失った。


「ようそこ」
 白い霧に包まれた部屋で、拓は目を覚ました。
「あなたは、まだ死ぬべき人ではありませんね」
 白い部屋のなかに浮かぶ白い少女が言った。
「え……?」
 起きたばかりの拓はまだ理解ができない。
「あなたの事故は、起こるべきだったものではありません。何を考えていたかは知りませんが、大事なことを考えていたはずです。」
 暗く白い部屋に浮かぶ、天使にも死神にも見える少女は冷静な口調で拓に告げた。
 そこでようやく思い出した。自分は車に轢かれたのだ。そして、死んだ……。
「どうして? どうして俺は死んだのにここにいるんだ?」
「ここは、天国でも地獄でもありません。似たようなものですが……。あなたは良いことを考え、そして死んだ。だからここへ来たのです。生きるチャンスを与えるために」
「生きるチャンス? でも俺は轢かれて……あれは見間違えなのか? 教えてくれよ!」
「あなたが死んだのは事実です。しかし、生きるチャンスがあることもまた事実。三日以内にあなたの肉親以外の人をここに連れてきて、あなたの代わりに自分を死なせてくださいと言わせるの。そうしたら、あなたは助かるわ」
「ちょっと待って、それって――」
「三日後の午後五時、またここに来れるわ。それまでに、そう言わせる相手を見つけなさい」
 少女の姿が薄れていく。とにかく何かを掴もうとして、しかし何も掴めずに、意識が遠のく。


 拓が意識を取り戻したのは車に轢かれた横断歩道を渡った先だった。しばらく立ち尽くしていたが、さっきの光景を思い出し我に返る。あの少女は? 自分は生きている? 何が何だか分からなくなったとき、自分の手から何かがこぼれていくことに気付いた。
 ……真っ白な砂。
 間違いない。あの部屋の砂だ。やはりあれは本当だったのだ。しかし、どうしていいか分からない。自分以外が死ぬ代わりに自分は生き延びる……、そんなことが許されるのだろうか?
 とにかく拓は、その日は考え続け、夜もほとんど眠れなかった。


 翌日。空は快晴。冬の寒さも健在だがここ数日中では一番暖かな日になりそうな空だが、拓の心は当然のように曇っている。一睡もしていないのもあるが、やはりどうにかしないと自分は死んでしまう……いや、もう既に死んでいる。死なないために誰かに……。しかしその先が考えられない。
 市内の割と高台の方にある高校へ向かう途中もどことなく足取りは重い。何人かの友達に声をかけられたが、気の利いた返事はできない。「まあ、よく分からんけど元気出せよ」などと言われてもこればかりはどうしようもない。
 始業ギリギリに入った教室のガヤガヤという話し声もどこか物憂げに感じられる。やかましいと言いながらも、この話し声も自分は結構好きだったなぁ……、と。
「お、拓ちゃん。やほー」
 拓に気付いた絵理が声をかけてくれる。その笑顔に一瞬だけ穏やかな気持ちになれるが、すぐにブルーな気分は戻ってくる。絵理ともお別れか。
「あれ? なんか暗いね? 悩み事?」
 鋭い。
 ここで悩みを打ち明けたら、絵理はきっと真摯になって考えてくれるだろう。しかし、そんなことはできない。
「いや、ちょっと、昨日夜遅くまで漫画読んでてさ、寝不足なんだ」
 と、誤魔化しておく。寝不足というのは嘘ではない。
 始業のチャイムと同時に生真面目な担任が教室へ入ってくる。数学担当、今年で二十六歳のこの教師はそれなりに整った顔立ちで密かに女子から人気があったのだが、その性格故に未だ誰も挑戦できていない。軽くあしらわれるのが分かりきっているのだ。
 出欠をとって配布物を配り終えるとさっさと出て行った担任に代わり、一時間目の英語の教師が教室へ入ってくる。英語が苦手な生徒からわざとらしく「ああ、英語嫌だー」という声が聞こえてきた。


 終始微妙に上の空。とりあえず授業を聞こうとすると途端に襲ってきた睡魔によって三時間目と四時間目はすっかり潰れてしまった。昼休みには絵理と一緒に食べるのがいつものことで今日もそうしているが、いまいち話が弾まない。絵理は明るいが饒舌というわけでもないので静かな昼食風景だ。ただ、お互いむっつりしているわけではなく、絵理は終始ニコニコ。暗いのは拓だけ。いつもは拓から話を切り出しているが、拓が話しかけられないので二人の微妙な空気は当然と言えた。絵理がちらりと横目で窺ってくるようだが、たいして気にしていないようだ。
 午後の授業はそれなりに聞いていられたが、果たして聞く意味はあったのだろうか。


 絵理は女友達と帰っていった。男友達の誘いを適当に断って今日は一人で帰ることにする。自分が何を言い出すか分からない今はそうした方がいい気がした。
 昨日とは別の道で家まで行き、帰るなりベッドに突っ伏した。夕食はでは寝かせてもらおう。


 翌朝も晴天。
「学校で何かあったの?」と母親が訊いてきたが、適当に濁して家を出る。
 登校途中に今日も友達に声をかけられる。
「よう拓、おはよう」
「ああ、おはよう」
 驚いた。昨日はだとたぶんもっと暗い感じでしか返せなかっただろう自分が、ごく普通に返せてしまっている。
「お、今日は明るいな? いや、昨日がどことなく暗かったのか」
 そんなに俺が明るく見えるか? 元気に見えるか? なんならお前が俺の代わりに死ねよ……。
 ハッと我に返り、その友達を見る。一瞬でも死ねなんて思った自分は、最低だ。


 退屈な授業も面倒くさい体育の授業も乗り切り昼休みを向かえた。
 絵理とはいろいろ話すつもりだった。どうせ死ぬんだ、なら最後まで楽しもうじゃないか。そう開き直っていた。休み時間中は男友達からいつもと同じように話しかけられたりしていて、もう悩みなんていうのはなかったような感じだったが、それでも絵理は訊いてきた。
「拓ちゃん……まだ、解決してないね?」
「ん?」
「明るく振舞ってるけど、いつもの拓ちゃんじゃないよ?」
「いや、悩みも何も俺は――」
「ずっと拓ちゃんを見てたんだよ? 分からないと思う? 拓ちゃん、まだ変。お願い、私でよかったら、話して」
 なんという、絵理はそこまで自分のことを見てくれていて、そして自分が悩んでいることをあっさり見抜いてしまったのか。
 これは、誤魔化せない。
「ううん……あのさ、……もしな、俺が死んだとするだろ? そしたらお前、悲しむか?」
「うん」
 即答。絵理が当たり前のように頷いたのを見てホッとして、さらに続ける。
「じゃあさ、絵理が死んだら代わりに俺が生き返るとしたら、それなら絵理は、どうする?」
 言ってから気付いた。こんな、俺の代わりに絵理、死んでくれるよな? と言っているも同然だ。自分に対して吐き気がしてくる。
 しかし絵理は迷わずに言い放った。
「私が拓ちゃんの代わりに死ぬよ?」
 あまりにあっさりと答えられ、拓は驚いた。しかも絵理の目は嘘をついている目ではない。表情が顔に出やすい絵理だ、嘘をついていたらすぐ分かる、そして今、絵理は嘘なんて言ってない。
「で? それが悩み? 大丈夫、拓ちゃんは簡単には死なないよ。私がいるもんっ」
 最後がイマイチ理由としてしっかりしてないがそこまで絵理は絵理だ。
「じゃあ拓ちゃんに訊くね? 拓ちゃんは私がそうなったとき、どうする?」
 絵理の想いに陶然となっていた拓だが問いかけられて我に返った。もちろん、答えるべきはこうだ。
「当たり前だろ? 俺も、絵理がどうなったら絵理の代わりに俺を死なせてくださいって言うさ」
「あはは、ありがと」
 その日の昼食は美味しかった。
 神様、絵理と出会わせてくれてありがとう。


 晴天は続いた。
 今日は自分の代わりに死んでもらう人を連れて行く日だ。でももう、誰かに死んでもらうつもりなんてない。絵理や家族を悲しませることになるけれど、でも死ぬのは自分でいい。いや、自分じゃなきゃだめだ。
 だから今日も家を出て、いつもと同じように友達と話して、いつもと同じように絵理と笑う。何が可笑しいのか分からないが、絵理とはよく笑った。そろそろ一年半なのに、まだまだずっと一緒にいたいと思う。放すもんか。
 最後の一日は驚くほどあっさりと過ぎ、下校時刻になってしまった。金曜日の放課後はみんなどことなく嬉しそうだ。明日は土曜日、休みの日なのだから。
 しかし、拓には明日はない。
 帰り際の絵理には何も言えなかった。
「明日、楽しみにしてるね」
 と、笑顔で言われても、自分にはどうすることもできない。
「おう」
 と曖昧に返事することしかできない自分が情けない。
 しかし、決めたのだ。
 午後五時。
 目を瞑る。
 足の裏から地面の感覚が薄れていく。冬の乾いた空気が霧に覆われた湿った空気に変わっていく。目を開けば、つい先日自分の死を宣告された白い部屋に、全身白の天使とも死神とも思える少女が浮いていた。
「死を、受け入れるのですね?」
「はい。……誰かを犠牲にして生きていくなんてできません。とくに、絵理と死なせるなんていうのは絶対に」
 しかし少女は微かに微笑んだ。
 そして、
「おめでとう」
 などと言った。
 これから死ぬ人間におめでとうなんて言うのかこの人は、と拓が思っていると
「やはりあなたは、まだ死ぬべき人ではないですね」
 と言われた。
「あなたは正しい選択をしました。そう、誰かを代わりに死なせて自分だけ生きようという考えをもった人に、生きる価値はありません。あなたは、そういう考えをもっていません」
「そう、だから俺は死にます。絵理とは最後まで楽しくやれたし、思い残すことは――」
「あなたには、この先も生きてもらいます」
「……え?」
「あなたなら、この世界で生きていくだけの十分な価値があります。生きなさい」
「ってことは……」
「もう、あなたは死なないのです。もう一度深く目を瞑れば、元の世界に戻れます。それに、やり残したことが、あるでしょう?」
「……は、はい!」
 拓は目を瞑った。
 時刻は午後五時三分。元の公園に戻っていた。
 ……ありがとう、言い忘れた。

 そういえば明日は絵理の誕生日だ。
 まさか迎えられるなんて思っていなかった。祝えるのが嬉しいが、まだ予定が……。
 急いで家へ帰り、考え始めた。


 土曜日の朝、駅前で拓と絵理は待ち合わせをした。
 電車で八駅、大きめのショッピングモールへ行く。何のこともない、デートである。
 先週くらいに二人で見たいなーなんて言ってた映画を見て、そのあと普通に買い物を楽しんだりして、一日は過ぎて行った。ずっと絵理は笑顔だったし、そんな絵理を見ていた拓も笑顔だった。
 空が赤くなってきたころに再び電車に乗って、家へ帰ることになった。
 絵理は今日はありがとね、などと言ってくれたが、まだ終わりではない。行くべきところはまだある。
 朝待ち合わせをした駅前広場に戻ったときにはすでに暗くなっていたが、本番はこれからなのだ。絵理に了承をとって着いてきてもらう。覚えてくれているだろうか、二人が出会ったときのことを。


「ここって、……学校だよね?」
 高台の上にある二人の学校に連れてきた。
 警備員なんかに見つかると厄介だが二人の高校はどこにでもある県立高校だ。警備はそんなに厳重でもない。
 裏門に回って侵入する。
 鍵のかかっていない窓から校舎内に入る。
 真っ暗な夜の校舎と言えば怪しいがまだ七時前なのでそれほど怖いこともない。絵理が全く恐怖心を感じていなさそうなのは、どことなく複雑だが……。


 階段を上り、また上り、さらに上る。
 最後に扉を開けるとそこは――
「屋上……?」
 外は相変わらずの凍えるような風が吹いている。
「ほら……見てみろよ」
 と言って扉から正面の方向に広がる景色を指差す。いつだったか、男友達と無断で侵入して花火をやったことがある。その時に見た景色と同じものが目の前に広がっている。
 絶景の……とは言い難いが、それでも立派な夜景が広がっていた。
「うわぁ……」
 絵理は素直に見入ってくれた。
 そんなに絵理の肩に、コートをかけてあげる。
「誕生日おめでとう、絵理」
 絵理に内緒で今日買ったコートは、絵理によく似合っていた。
「俺達がさ、初めて話したのって、ここだったろ?」
「うん……」
「でな、ここにまた二人で来たいと思ったんだ」
 しばし沈黙。そこに、雪が降り始めた。
 予想外の雪で、二人の見ていた夜景がさらに美しくなる。
「綺麗だね……」
「だろ……」
「ありがとう、今日は、いろいろ」
「いや、いっつも俺のほうこそありがとうな。ほんと、絵理がいなかったら、今頃俺どうなってたか分かんねーしさ」
「うん……ありがとう」
 拓は思った。
 絵理と二人で見られる景色がいつまでも続きますように。
 しあわせの風景が、いつまでもいつまでも、続けられますように。