プール

             涼露

   

 プールとは、単に人工の池であるとか水泳による遊戯施設(学校の場合は教育設備)であるなどと言ってしまえばそれまでであり、また実際そうであるのだが、ここであえて私はこう言ってみよう。

 プールとは、“夢”である、と。

 よくよく考えてみてもらいたい。プールというのは、普通水着を着用する。誰に強要されたわけでもなく、実に自然にあの薄い布一枚のみでプールサイドに現れるのである。全男子にとって、この魔法を夢と言わずして何と言えようか、いやはや想像につき難い。

 本作は校内で配布される部誌に掲載される予定であるため、学校におけるプールについて述べたいと思う。
 プールでのまずの楽しみは着替えである。
 なに、目の前で繰り広げられる同性の着替えを楽しめと言っているのではない。すぐ隣で行われる、異性の着替えを楽しむのである。
 無論、少なくとも薄い壁一枚、場合によってはいくつかの部屋や機械の山に隔てられた向こうのことである。直接目で見るなどというわけにはいかない。また、中学時代には壁をよじ登って覗こうとしたり、更衣室の外から双眼鏡を使って覗こうとした輩がいただろうが、高校生になってそのようなことはしてはならない。ナンセンスである以前に、本格的に犯罪予備軍の温床となってはまずいからである。
 ではどうやって見るのか。それは単純である。
 心の眼を使うのだ。予め水着を着込んでおき、いざ更衣室に入ったら制服を脱ぐだけで着替え完了という状態にしておく。そして着替えが終わったら、目を閉じ精神を集中させ、数メートルだったり十数メートルだったり隣で行われている祭りをイメージするのだ。それと同時に地獄耳を発動させ、微かな衣擦れの音までをも拾い上げていく。その音を感じ取ると同時に、心の眼を開けるのだ。するとどうだろう、広がってくるだろう? 全ての男子にとっての憧れの景色が。言葉では表しつくせない至福の花園が。その光景を、時間の許す限り楽しむのだ。

 次の楽しみは言うまでもなく、実際の邂逅である。学校関係では制服(特にセーラー)、体操服(特にブルマ)と共に数えられるあの、スクール水着が眼前に当然の如く並ぶのである。
 男女が同じプールで水泳の授業を受ける場合は、ほとんどの場合お互いプールサイドの反対側に並べさせられる。しかしこれは逆に、危機感をほとんど感じることのない女子たちを眺めることのできる絶好の配置なのだ。思春期の少年にとって女子の方をじろじろ眺めている姿を見られるのは、その見られる相手が男子だろうと女子であろうと恥ずかしいものである。しかし、ほとんどの男子にとって正攻法でスク水の女の子たちを眺めることができるのは高校生時代がほぼ最後であると思われるので、周りに何と思われようがじろじろ見るべきなのである。盗ってるわけではないのだからいくら見たって減らないし、じろじろ眺める自分を同性がどんな嫌な顔して見ようが、意地を張って女子の方を見ないそいつより、欲望に忠実に眺めた自分の方が得をしているのである。何を躊躇うことがあろうか。

 しかし残念なことに、水泳の授業中はあまり楽しみに巡りあえない。プールというイベントにおいてオマケであったり苦行でしかなかったりする授業というものが、残念なことに一番時間的に大きいにも関わらずその授業というものの性格上自由な時間は少なく、さらに水泳というものも、思った以上に水の抵抗を受けたり息が途切れ途切れになったりで体力的にもつらくなってしまうからである。一時の清涼剤も、まさに読んで字の如く、一時で終わってしまう。もっとゆっくり泳げばいいのに、どんどん順番は回っていって、やっと二十五メートルを泳いで返ってきた自分の番がくるのだ。ここはひたすら、我慢であろう。

 数十分という、本来はメインのその苦しい時間を終えると、最後の楽しみがやってくる。着替えを終え、むさ苦しい更衣室から脱出したあとに目に飛び込んでくるのは、濡れた髪の麗しい女子たちである。制服姿に濡れ髪という普段見慣れぬ組み合わせに、苦行を終えたあとの頭と体は一気に疲れを発散させ、頭はあらゆる思考へと思い巡らし、体は今にも飛び出さんばかりに軽くなる。全ての負の存在をも受け入れてしまえる寛容な心が体を満たし、喜び勇んで次の授業を受けようという気を与えてくれるのだ。

 しかしながら実際は、次の授業では体は肉体的な疲労を訴え、頭は見たもの聴いたもの感じたものの整理の時間を要求する。睡眠という、疲労の回復と記憶の定着という一石二鳥の手段も存在するが、安易にその手に出てはならない。NEET予備軍の温床となってはまずいからである。負けるな高校生。