涙に解けるしがらみ

               涼露



 雑多な書類と液晶画面とが並ぶ明るい部屋の片隅で、私は取調べを受けていた。目の前の、最も職位の高いと思しき男は私がやったのだと疑いもしていないようで、先ほどから冷たい視線を向け続けている。

 男の名前は、ファルルと言った。頭上に浮かぶ金色の輪っかと背中に生えた白い羽が分かりやすく天使という属性を主張してはいるが、褪せた茶色のコートとグレーのスーツ、紺のネクタイに、スーツと同色の帽子と、日々の生活でやつれてしまったのかと思わせてしまうような彼の容貌が、その天使らしさを完全に打ち消してしまっていた。
 
であるから、名前と職業が書かれた身分証明書を見せてもこの駅長は胡散臭げな表情をし、私のやっていない、という証言など完全に無視されるようになってしまっていた。やっていないと言ったところでこの頭の固い男に伝わるものは何もないと見た私は、途中から抗弁する気もなくなっていた。時々駅長の隣に座らされた少女を見て、それから私に向けて発せられる、やったんだろう? といううんざり感が隠せない質問に対して、いいえ、と返すだけになっていた。
 駅長の隣に座らされているのは肩にふんわり黒髪がかかるくらいのセミロングの少女と、前髪をヘアピンで留め、先の少女より少し長めの黒髪を後ろで一つにくくっている二人の高校生らしき少女だった。制服や鞄も綺麗で、今どきのギャルという感じとは程遠い、感じのいい少女たちであった。
 私は仕事のために電車に乗って移動していたところ、彼女らに痴漢をしたと言われ、駅長室まで連れて来られたのである。最初は怯えるような目で私を見つめていた少女らの目がいつしか、なんと言おうか、心の底に何か別の感情があって、それを隠すための芝居のように感じられてきたのは、一時間か二時間、この不毛な時間が続いた時だった。
 バタンとドアを開ける音がして、二十代そこそこの駅員が息せき切って飛び込んできた。
「駅長! その男は、おそらく痴漢ではありません! というか、その高校生! 神尾有紗と八木実莉! 痴漢されたと嘘をついて、警察沙汰にしない代わりに小金を請求する、脅迫の常習犯です!」
 その報告に、さっきまで私を犯人と決め付けていた駅長は大変驚き、少女二人はあーあ、と溜息をつき、私はなるほどと思った。
 少女らはそのままそそくさと逃げようとしたのだが、私を散々悪者扱いしてきていた駅長に捕まり、三十分ほど説教された後、私に謝罪させた。駅長はどうやら私を完全に悪者扱いしていたことをすまなく思っているらしく、少女らに謝罪させた後に彼も謝罪した。
 私と、厳重注意のうえで警察や家への連絡を免れた少女らは同時に駅長室から解放された。十分に反省したように見えた少女らだったが、彼女らは私のいる前で、「都心の地下鉄に出没する痴漢天使伝説、駄目だったねー」「あんな目立つオッサン、あの場で大声で痴漢扱いしてやっただけで十分広まるって伝説―」とキャハハと笑っていた。私は天使という職業も忘れて、こういうのが死んだ方がマシな人間というのか、と物騒にもそう思った。


 その駅からいくつか目の駅に私が降りたときには、既に辺りは暗くなってしまっていた。季節は春で、昼間は暖かな日差しが差し込む季節となっていたのですが、日も落ちた後、しかも雨の降る中では、まだまだ肌寒い季節でした。
 私は、それこそ目が回るほどの人間のいる大都会からは若干外れの方へ移動した駅前の、いかにも待ち合わせのために造られたような時計塔の前に、駅のコンビニで買った傘を差して向かった。約束の時間をとうに過ぎていたので、もう相手は帰ってしまっていると思っていた。なんせ私の天使という職業は、常人が冷静に考えれば馬鹿らしいものであるのだから。
 しかし、人もまばらなその時計塔の前をさっと見回したとき、何故だか一目で彼女が分かった。予想していた感じとは違って、茶色に染め上げた髪に無茶苦茶な字体の英語が躍った派手な服、破れているのが当然のようなぶかぶかのジーンズに、目には何故かサングラスをかけていた。
「天使……さん?」
 その、それこそギャルというか不良というかそんな感じの少女は、意外にもか細い声でそう言った。しかし直後、
「こんな暗くなるまで女を待たせるって、どういう神経してるわけ? 天使って、平気で人を待たせられるの? 最低ね」
 と、毒づいた。私は駅でのことについてで言い訳しようかと思ったが、結局「すいません」とだけ言った。


 私とその少女は、近くのファミリーレストランで話すことにした。夕食時で店内はそこそこに客が入っていたため、どう見ても三十代半ばから四十代程度にしか見えない私と、十代半ばにしか見えない、しかも一般的に若干不良っぽく見える少女とは店員や他の客の怪訝そうな視線を集めた。店の一角に案内された私と少女は、私は季節野菜のグラタンを、彼女は魚介類パスタをそれぞれ注文し、依頼についての話に入った。
 依頼を要約すると、三ヶ月前に亡くなった彼女の兄と会わせてほしいというものだった。
 彼女、石井希美の父親は小規模ながらも会社を経営しており、その業績も良好だったのだという。しかしその父親は数年前に他界し、母親も既に彼女が幼い頃に亡くなっていたため、会社は彼女の唯一の兄妹であった兄が継いだのだという。彼女とは十も歳の離れた彼は、年配の従業員らとも良好な関係を築きつつ、経営者を失った会社をよく支えたのだという。
 しかし、その真面目だった好青年を、悪魔の悪戯だろうが、事故が襲ったのだった。彼は亡くなり、まだこの春から通う高校も決まっていなかった彼女は再び社長を失った会社の、形式上社長の座に就き、彼女が大学を卒業するまでのあいだ、父の頃からよく会社を支えてくれていた重役の男性が事実上会社の経営を任されるということになったのだった。
 兄の葬儀も、受験も終えた彼女だったが、やることを終えた彼女の心は依然、ポッカリと大きな穴が空いたままだったという。
「天使だったら、兄に会わせてくれるんですよね?」
 彼女は話の最後に、確認するように私に尋ねた。
 私はとりあえずの現実を告げようと思った。
「ええ、会わせてあげることはできます。でも――」
「いつですか!」
 彼女は身を乗り出して訊いてきた。
「まだ話は終わっていません。ですから――」
「お金なら、ここに、百万あります! もっとと言うなら、ちゃんと会わせてもらえたら、引き出します!」
「いえ、そういうわけではなくてですね、つまり――」
「時間ですか? ええ、分かってます。兄や父や、母や会社のことを調べる時間が欲しいんでしょう? 分かってます。それと、安心してください。私の兄は三ヶ月前に死んだあの唯一人ですから、会わせてくれた兄は実はまだ生きていた、なんてことありませんから。だから……」
「いえ、ですから、お金とか調査の時間とか、そういうわけではないんです。問題は、あなた自身です」
 私はようやく、言いたいことを言えたと一息ついた。
「私……?」
「ええ。あなたは、お兄さんに会いたいと仰っている。最後の肉親ですから、そう思うのは当然かもしれない。でも、会って、それであなたはいいんですか?」
「何が悪いんですか! 私はただ兄に……、兄に、会えさえすれば……会えさえすればそれでいいんです……」
 彼女の強い意志と言葉は、しかし段々尻すぼみになっていた。そこで私は、やっぱりと確信したのです。彼女の派手なファッションも髪もサングラスも、弱い彼女を隠すものでしかない。彼女のサングラスの奥に揺れる目は、歳相応に、起きた出来事に大きな悲しみを抱いていたのです。
「あなたは、お兄さんに会って、それで崩れてしまうかもしれない。会えたがために、それで全てのやる気を失ってしまうかもしれない。そう……、あなたは、弱い。……それでも、会いたいと思いますか?」
「……」
「来週、今日と同じ時間に、今日と同じ場所で待っています。……来週は、時間に間に合うようにしますね。その時までに、考え直してみてください。会わずに、世界への憤りを糧に強く生きるという道もあります。あなたのことを思えば、そちらの方をお勧めしますが……、それでも会いたいというならば、来てください。会わずに生きようと思ったならば、来てくださらなくて結構です。私のことも、忘れてください」
 私はその選択肢を示して、領収書を手にとって、お代は払っておきますね、と彼女に告げた。彼女は堪えるように震えながら、何も言わず、わずか頷いた。


 天使というものは、というより、天界というものは不安定なものでして、その存在を人間界に依存しているのです。いえ、人間界に、だったらよいのですが、これが人間に、なのです。怒りや不安や悲しみや、これら人間の不安定な感情から一転、正の喜びに裏返ったときのエネルギーが、天界に重要極まりないエネルギーとして溢れ出しているのです。
 そのエネルギーの供給を安定させるために天界より派遣されているのが私ら、各地にひっそりといる天使なのですが、果たして目の前のこういう男をどうしようかと悩まされます。
 街で偶然見かけた私に、藁にもすがるような面持ちで話しかけてきたものだったので話を聞いていたのだが、パチンコにもスロットにも競馬にも競艇にも負け続けてお金がないからどうにかしてくれ、という全く救いようのない話だったのだ。
「俺一生懸命働くよ! 今だったら工事現場とかじゃなくてコンビニだって日雇いしてくれるんだぜ? それで一万でも二万でも金溜めるからさ、その金で大儲けさせてくれよ! どの馬が勝つか教えてくれるだけでいいからさぁ!」
 そう言い放ったチャラ男に、私は返す言葉を探した。万馬券を何枚も手に入れさせることくらいできるのだが、そうしたところでこの馬鹿の為にならないことは一目瞭然だったので、それをどう説明すべきかと考えたのだ。
「そこで一儲けしたとして、その後どうするのです? 残り数十年という人生を、どう生きるつもりなんですか?」
「そこで儲けたら、その金でまた儲けるぜ! どんどん万馬券当ててよ、パチンコも回しっぱなしでよ! そのうち金貯まったら、今度はラスベガスに行って、そこで稼ぎまくって遊びまくってやんよ! あ、ちゃんと天使さんも来てくれよ? ああ、ベガスの天使さん紹介してくれるだけでもいいけどさ、ほら俺、ギャンブル下手ぢゃん? だから絶対負けると思うんだよね。だからさ、日本で稼ぐ間はアンタ、向こう行ったら向こうの天使さん、しっかりサポートしてくれよな?」
 私は本格的に、言葉を失いました。まさに駄目人間といった感じのこの男を、いったいどうして救うことができようか。
「真面目に働きなさい。日雇いと言わず、ちゃんとした就職先を探して、そこで普通に働きなさい。働くことの素晴らしさを自らで感じなさい」
「はぁ? ふざけんなよお前それでも天使かよ! 可哀相な俺を助けてくれよ!」
 喚く阿呆を放って、私はその場を離れた。これ以上付き合うのも馬鹿らしかったし、そもそも時間がなかったのだ。まさか二週続けて遅れるわけにはいかない。


 あの日から一週間、私は前と同じ時計塔の前にやってきた。薄暮の時計塔に、あの少女の姿はあった。
「今日は遅刻しなかったのね」
 彼女は満足したような目をして言った。
「ええ、おかげさまで。ここではなんですので、移動しましょうか」
 そう言うと私と彼女は、近くのカラオケボックスへと移動した。相変わらず私と彼女が共にカラオケボックスへ行く光景は怪しげな視線の的となったが、人間の視線に興味のない私と、物怖じしない性格の彼女は気にすることなくカラオケボックスの一室へと入った。
 まさか歌おうというわけでもないので、私は一旦彼女に席を外すよう言った。彼女が部屋を出ると、私は、何をどうしたとは言えないのだが、準備を始めた。準備が整うと、ここもどうとは言えないのだが、少女の兄を呼び出した。人間の言う霊がどうこうとは少し違うのだが、そう思ってもらっても問題ないだろう。
 彼女の兄が狭いカラオケルームに現れると、私は外に出てもらっていた彼女を中へと招き入れた。
「お兄さま……」
「希美……」
「お兄さまっ!」
 彼女は兄へと抱きついた。その存在を確認するように、強く強く抱きしめた。また彼の方も、おそらく生前とても愛していただろう妹を、懐かしそうに、愛おしそうそうに抱きしめた。
「お兄さま、会いたかった……! 突然行ってしまうから、私、私、……寂しくって寂しくって……」
「ごめんな……。でも、もう俺がいなくなったんだったら、希美はしっかりしなきゃ駄目だろ? 俺が死んで三ヶ月経つのに、未だにその格好かよ」
「だって、お兄さまがいなくなってからすぐ変えたら、お兄さまを忘れてしまいそうで……」
「希美が俺のことを思ってくれてるのは分かってるよ。だからさ、そんな世間に反発するのはやめてさ、見た目も中身もばっちりの女として、会社を頼むよ」
「お兄さま……、お兄さまがそう言うなら、私……」
 その辺りまで見てから、私は彼女を兄に任せて、「失礼します」とだけ言って部屋を出た。
 部屋を出ると、他の部屋から漏れ出す歌声に紛れて、彼女と兄の声は聞こえなくなっていた。彼が消えてしまうまで数十分、最後の時と、これからの時を見つめて、彼女に過ごしてもらいたいと思った。
 受付で八時頃までの料金を払っておいて、私はカラオケボックスを出た。来てからほんの二、三十分しか経っていないのに、外は一気に暗くなっていた。
 私は駅までの、店々の明りの照らす道を、彼女のことを思いながら歩いていった。よく考えた末で兄に会いに来たのだろうが、果たしてそれが本当に彼女の幸せに繋がるのだろうか。
 天使の立場としては、会えた、喜んだ、それで終わりなのだが、もうこちらの世界も長い私は、本当の人間の幸せというものを考えるようになっていた。それが、私がこちらに、半ば厄介払いされた理由であると分かっていながら、そう思った。
 私は長らく戻ることのできていない天界のことを思いながら、空を見上げていた。その、天使にとっては初め理解できない行動を、人間の考え方ではそういう所にあるものを見ることを、私が無意識にしていたと気付いた時、なるほど本当に私はこちらに長いのだなと、苦笑した。


 私が彼女の未来について知ったのは、この数十年後、天界で、頭を真っ白に顔を皺だらけにした、穏やかな笑顔の彼女を見た時でした。私はその時に、彼女の選択は、そして、自分のしたことは、間違っていなかったのか、と思ったのです。


End