さよならの哀日(バレンタインデー)

                  涼露


 Saturday, February Twelfth

結局一睡もすることができなかった。
 いつも六時半に鳴る時計のアラームを解除して、奈央は階下へ降りた。洗面台で冷たい水で顔を洗った。覚ましたいのは眠気じゃない、事実を受け容れられない自分の弱さだ。
 しかし、鏡に映った自分は、泣き腫らして真っ赤になった眼も、今にも萎れてしまいそうな弱々しさも隠せていなかった。
 食卓にはトーストとコンソメスープが並んでいた。
「あら、おはよう。早いのね」
 母親はそれしか言わなかった。食欲が出ないだろうことを予想して、いつもなら並んでいるはずの目玉焼きやベーコンエッグを黙って抜いてくれていた。こんなところに、母親の優しさを感じる。
「いただきます」
 静かにそう言って、トーストをかじった。起きてきた父親が新聞を読みながらトーストにスクランブルエッグを豪快に挟んで食べ、そこにコーヒーを母親が持ってきて、それから席に着いて自分もトーストに手を伸ばす。テレビから流れてくる朝のニュースも含め、いつもと何も変わらない風景。しかし、奈央の心は何も感じることはできなかった。


 私立嶺谷(みねたに)高校。毎年二月の第二日曜日、つまり明日に卒業式を行う慣例だった。今日は一、二年生が授業を潰してその準備を行うことになっている。
 会場となる第一体育館に椅子を並べ装飾を施す。体育館から校門までの道の脇には色とりどりの花々の鉢が並べられて、アスファルトで舗装された道の隙間から生えている雑草は一本一本抜かれていく。卒業生が通らない校庭もきっちり整備され、本日は立ち入り禁止になる。校門を出て卒業生は一旦解散したあと、再び戻ってきて別れを惜しむかのように在校生と校庭を駆け回るらしい。
 奈央の属する二年九組は体育館の装飾や細かい作業などを充てられていて、それは昼前に終わった。担任からの短い労いの言葉のあとは各自解散となり、特に用のない者は家路に就き、まだ明日に向けて用のある者はその場へと急いだ。二‐九は他のクラスに比べて若干遅れていたのだ。


 奈央は第二部室棟の一室の前に来ていた。コスプレ研究部。その、普通の高校に存在するとはなかなか思えない部の名前が書かれたプレートを掲げる部屋の前で、奈央は静かに深呼吸し、思い切って扉を開けようとし――
「お、北村さんか」
「か、川村先輩!?」
 扉が急に開き、明日卒業予定のはずの川村宗也が現れた。
「今から昼食なら、外へ出た方がいい。みんなもう昼食を終えて作業に入るところだからね。僕も昼食を取りに食堂へ行くところなんだけど、一緒に来るかい?」
「あ、はい。じゃあ、荷物だけ置いてから行きます」
 奈央は部室に入ると、そこでは確かに、既にコスプレ衣装を引っ張り出してきて丁寧に並べている部員達の姿があった。
「あ、北村先輩。遅いですよぅ〜?」
 小さな弁当箱を鞄にしまっていた矢野彩華が、奈央に気付いて声をかけてきた。小柄な体と長い髪が可愛らしい一年生だ。
その声で作業中だった部員達が一斉に奈央に気付く。その中から三年生の飯田麻衣が奈央に駆け寄ってきた。
「遅れてすみません。うちのクラスの作業が長引いてしまって……」
 奈央は遅れたことを謝ったが、
「ううん、いいの。……来てくれたのね。ありがとう」
 麻衣はそう奈央に優しく微笑みかけた。
「あ、えっと、お昼まだなんで、川村先輩と食堂で食べてきますね」
 奈央はそう言って弁当箱を持って駆け出した。麻衣の優しさに触れて、また悲しさがこみ上げてきたのだ。
 奈央は振り返らないで走り、優しい外見とは裏腹にちっともデリカシーのない川村と食堂へ向かった。


 コスプレ研究部は少ない人数や歴史の浅さにも関わらず、文化部内での序列を吹奏楽部、軽音楽部に次いで三位につけている。その理由が今日の活動内容でもある、衣装の貸し出しである。その保有する衣装は、質、量ともに今では演劇部や手芸部を大きく上回っており、提供を受ける中小規模の文化部はもとより、吹奏楽部すら頭が上がらない状況であり、チアリーディング部や応援団に頭が上がらない運動部も、必然的にコスプレ部に頭が上がらない状況になっているのだという。噂によると来年度は軽音楽部を抜き、文化部二位に上がるらしい(それと同時に教師陣は、この馬鹿げた部が嶺谷一位の文化部になってしまわないよう手を回し始めるらしい)。
 実務的には催し物に欠かせない提供者として、また、全校生徒を魅了してしまうほどの部員の質の高さによって、このコスプレ研究部は嶺谷一の巨大組織に成長しつつあった。


 『嶺谷の貴公子様』として数十人もの生徒が在籍するファンクラブまである川村宗也が、目の前で『鯖の味噌煮』を食べる姿は相変わらず滑稽であった。『スタミナ焼肉丼』をがっつく姿と比べればまだマシかもしれない。そんな川村の両サイドに陣取って、エクレアを一口食べただけでじっと眩しい物でも見るような目をしている女子生徒Aと、クレープをもはや一口も食べないでキリストか釈迦でも見るような目をしている女子生徒Bは、どうにかならないものだろうか。
「ごちそうさま。……すまない、北村さん。今日も日野さんに話があるって呼び出されていて、先に部室に帰っていてもらえないかな?」
 その『話』が何で、その返事がどうなのか、もう分かりきったことで、奈央は「はい、分かりました」とだけ言って席を立った。つまるところは告白であり、しかも何十回目のことで、それを三年間に渡り断り続けているのだ。OKを出す気もないくせに「彼女の言葉だけは受け止めてあげなくてはならない」と告白され続けている人なのだ。
 奈央は弁当箱片手に、部室への道を進んだ。まだ気持ちに整理がついたわけではないけれど、歩くしかないと思った。どうせ分かっていたこと、自分がどうしたって、変わらないこと。だから自分は、何があっても歩こうと思った。
「『貫無量の大物』らしくないな」
 突然の声に奈央は驚いて立ち止まった。
「田代君……?」
 そこにいたのは、奈央と同じ二年生コスプレ研究部員、田代友彦であった。
「『大物』ってのはマグロのことだ。容姿端麗裁縫上手演技力抜群という質の高さがその所以だそうだな。そしてもう一つの理由が……」
「何があっても立ち止まらない、そう言いたいんでしょ? ええ、今までだって『シンデレラ戦争』や『メイド会長戦争』を走り続けてきたわ。そしてこれからも、コスプレ部史上初の女部長として、走り続けるつもりよ」
「そのことじゃないさ。『コスプレ部の北村奈央』としてじゃなくて、『一人の人間としての北村奈央』として、今のお前は走っているのか、って話だよ」
「一人の……人間として?」
「逃げてるよな。俺だって驚いたさ。お前が受けた驚きは俺とは比べ物にならないだろう。それをお前は、受け止めようとせずに、かわそうとしている。だよな?」
「そんなことはない! 私は考えた! 考えてそれで、笑って見送ることにしたの! 笑顔で! 笑顔で先輩を――」
「俺が見てきた北村奈央はそんなんじゃない!」
「……!」
「俺が二年間見てきた北村奈央は、そんな奴じゃない。ああそうですかって、笑って終わらせられる人間じゃない。そうだろ!?」
「じゃあどうすればいいのよ! 私は……私は……!」
「……飯田先輩が、今日は帰っていいって言ってた。逃げるなよ? ……そんな北村、俺は見たくない……」
 立ち去る田代を見ることもできず、奈央は座り込んで泣き続けた。通りかかった生徒が教師を呼んで、どこか痛いのかなどと聞かれたが何も答えられるわけもなく、ただただ大丈夫ですとだけ言って、顔を洗って、それから帰った。
 涙が止まると、とてもスッキリした気持ちになっていた。


 Sunday, February Thirteenth

 他の部は卒業式の後に校庭でドンチャン騒ぎをするところが多いのだが、コスプレ研究部はそれがない。代わりに、卒業式の次の日の月曜日に、部員揃って学校を休み卒業祝いをやるのだった。最近は前もって牽制球を幾つも投げられ、それでも学校をサボってやってからは厳重な注意を受けるのだが、どうやらこの習慣が近い将来途切れることはないようだ。
 そういうわけで卒業式当日の予定がない奈央は今、キッチンの前に立っていた。
 水が張られた鍋を火にかけ、スーパーの袋から取り出したブツを切りにかかる。黒くて硬いそれを切るのは初めてだったが、包丁に迷いはない。湯せんで溶かし、型にはめて冷やし、できたそれを包装して、それが終わる頃には二月の陽は傾き始めていた。
「できた?」
 買い物かごを提げた母親がキッチンに入ってきた。
「うん、今片付けるね」
 奈央と母親は一緒になってキッチンに散らかった道具類を片付けた。


 Monday, February Fourteenth

 予定通り無断欠席しておきながら、コスプレ部一行は嶺谷高校から最寄りの駅前に集合した。一時間目どころか二時間目すら始まっている時間なので、制服姿の嶺谷校生と会う心配はないが、さすがに初めての一年生は少し緊張しているようだ。
「先輩……去年もこれだったんですか?」
 緊張の理由はただ単に自分が無断欠席しているからというものではなかった。誰だって、白昼に変質者が出たら驚く。それが自分達だと分かっているから、緊張しているのだ。
 コスプレ部一行は、全員コスプレ衣装着用で集まっていた。
「そうよ? これでこそコスプレ部! って感じじゃない!」
 そう当たり前のように答えている現生徒会長岡部百合は、この寒いのに普通ではありえないほど露出度の高いメイド服を着て平然と立っていた。
「それはそうと先輩、集団で無断欠席してて、コスプレ部は大丈夫なんですか?」
 そう訊いたのは、幼稚園児のコスプレを全く恥ずかしくなさそうに着ている矢野だった。これは大物になるな……と見ていいのか、可哀相に、コスプレ部の空気の被害者ね……と見ていいのか、用意に判断ならない。
「うーん、田代君以外みんな成績優秀だから大丈夫じゃない?」
「うるせぇな!」
 岡部のふざけた(しかしおそらく正しい)答えに田代が文句をつけたが、岡部はかまわず、
「じゃあ行きましょう〜! 先輩達はもう向こうに着いてるわ!」
 と、一年生を率いて再び駅へ向かって行った。行く先はここから二駅先、初代コスプレ部部長の家が経営する焼肉屋である。一日貸し切っての大騒ぎが行われる。


「ここよ!」
 そう言って岡部がまるで自分の店みたいに紹介した店はそれほど大きいわけではなく、というか小さかったが、しかし初めて見る一年生達はおお〜! と歓声を漏らす。ちなみに岡部を含め自分達は、それがコスプレ部の物であるということ、今やその店を経営している、初代部長が誇らしいのだ。
「来たね! いらっしゃい!」
 一行の気配に気付いて出てきたのは、その誇らしさの対象、初代部長の宮本恵梨子であった。
「相変わらず繁盛してますね!」
「当たり前よ! 近々六店舗目が開店するから、是非見てってね!」
 岡部の一瞬嫌味のように聞こえた言葉と、宮本の嘘ではなさそうな口調の返事に、一年生達はキョトンとなる。
「ふふふ、宮本先輩はな、カリスマなんだよカリスマ! ここを含めて五店舗も経営してるんだぜ!」
 そう田代が誇らしげに説明して、
「でも、この本店だけは、私たちのために綺麗に改装するなんてことなく、このまま残しててくれてるんだ…」
 奈央は何故ここがこんなに小さく地味なのかを説明した。
「ここをコスプレ部の原点だと思ってくれてる後輩がいる限り、ここはずっとこのままなのさ!」
 宮本は笑顔でそう言って、みんな来てるよと中へ一行を入れてくれた。すると中からは騒がしい声々と、焼けた肉のいい匂いが漂ってきた。
「おー、もう焼いてるよー!」
「明日からを担う一、二年生来たねえ」
「ぎゃああ、田中先輩一気にそんなに取らないで! 川村君、あんた黙々と食べてないで焼きなさいよ! 飯田と山岡君を見習いなさいよね!」
 昨日卒業したばかりの先輩達に加え、そこにはいくつか上の代の先輩達が何人もいた。
「や、山岡先輩……」
 その中の一人、山岡俊巳と、奈央は目があった。あってしまった。ずっと見てきたその先輩を、この二日間でいくつも流した涙の原因を、久しぶりに見て、胸に込み上げてくるものはもう悲しさではなかった。
「え、えっと、山岡先輩。それに、川村先輩も、飯田先輩も、田村先輩も、卒業おめでとうございます!」
 奈央は一息でそれだけ言い、それから肉を焼いていた飯田に「奈央ちゃんここおいで〜」と言われて、そこへと歩いて行った。小声で「もう大丈夫な顔してるね」と言われて、「はい」とだけ答えた。


 広い座敷にはカラオケが据え付けられていて、流行のJ-popからアニソン、奈央らにとっては「懐メロ特集で聴いたことある〜」という曲から演歌、軍歌まで熱唱された。既に成人しているOBOGの方々に出された酒を、高校生が平然と飲んでいることは秘密。


 外をうっすらと暗がりが支配し始めた頃、山岡が立ち上がった。酒を飲んでいなかった彼の足はふらつくことはなかった。
「ちょっと早いですけど、僕はこの辺で失礼しますね。えーと今日は、本当に皆さんありがとうございました」
 山岡はそう言うと何度か礼をしたあと、帰って行った。
 奈央の隣で飯田が「ついに山岡君、行っちゃうのねー」と呟いた。それは三年の先輩だけじゃなく、一年も二年も、年上の先輩方にもなかなか会えなくなる山岡に対して応援と寂寥の混じった雰囲気が流れた。
「……あれ? 行かないの?」
 山岡を見送ったままその場を動かない奈央を訝しんで、飯田が問いかけた。
「今を逃したら、次はゴールデンウィークかも、夏休みかもしれないんだぞ?」
 はっきりしない奈央の頬を飯田が指でぐりぐりとつつく。
「はい……、分かってるんですけど……」
「行ってきなさい! 私が欲しくて欲しくてたまらない可愛い奈央ちゃんのそれは、山岡君のために作ったものなんでしょ!」
 飯田が大声で急き立てて、奈央はようやくハッとした。ちゃんと心の準備もしてここに来たんじゃなかっただろうか。それなのに今、どうしてグズグズしているんだろう。
「じゃ、じゃあ、行ってきますね!」
「行っておいで! 戻ってきたら、私が抱きしめてあげるから!」
 奈央はみんなに礼を言って、山岡を追いかけた。


 奈央は走りながら、想いが込み上げてくるのが分かった。今から自分がすること、その結果、分かっていて、分かっているから、目頭が熱いという感覚が分かった。
 やがて、寒さのおかげで人通りが極端に少ない道の先に、山岡の姿を見つけた。
 山岡秀夫、十八歳。十二月十九日生まれの射手座、血液型はO型。好きな食べ物はロールキャベツと固焼き煎餅、苦手な食べ物は茄子と椎茸とパイナップル。東京の大学への進学も決まっている。得意なコスプレは物理学者と内科医。奈央じゃとても助手を務められない憧れの人。彼のことは何でも知ろうとしてきた。他に好きな映画の種類や、得意な教科苦手な教科、それから、彼がずっと見ていた女性のことも。
 卒業式が終わってコスプレ部仲間での卒業祝いが終わったその日に東京へ行く理由も。彼より一年先に卒業して東京の大学へ進学していった彼女にそれほどまでに早くに会いたいという、それが唯一の理由だった。
 呼び止めて立ち止まった彼の前に立った奈央は息はもう切れ切れで、それでも涙は止まらなくて、涙を頬につたらせながら奈央は一旦息を整えた。
「山岡先輩!」
「どうしたんだよ、北村さん」
 彼も奈央が何を言いにきたのかは分かっている。今まで避けてきた結果を、もう先延ばしにはできないということも分かっている。
「今日……何の日か知ってます?」
 奈央は涙の止まらない声で問いかけた。
「二月十四日……、バレンタインデーか」
 山岡は少し間を置いて答えた。
「先輩が金曜日に、月曜日には東京へ行くって言ってから、私悲しくて悲しくて……、せめてもう一ヶ月くらいは一緒にいられる、だから、その短い時間だけでもいいから一緒に過ごしたいって。それが何にもならないって分かってても、それでも先輩と一緒にいたいって思ってて……それもできないって思ったら涙が止まらなくなって……。でも、そんな一緒の時間なんて結局なんにもならないって、分かって……、いや、分かろうとしたんです」
 奈央は鞄から綺麗に包装された包みを取り出して、
「私は……ずっと先輩のことが大好きでした。いつもいつも、先輩が池田先輩のことをずっと想ってるって知ってて、それでも私はやっぱりずっとずっと、山岡先輩のことが好きでした」
「そう……か」
「先輩には……たくさんのたくさんのものを貰いました。だから、返事は大丈夫です。……向こうへ行っても、元気で、私が好きだった、優しくて最高の先輩でいてください……っ!」
 涙で途切れ途切れになってしまったがそれでも奈央は最後まで言い切って、走ってきた道を駆け戻っていった。
 山岡に会って、恋して、その山岡の気持ちを知って、それでも変わることのなかった想いを、自分の口から直接彼に伝えることができた。先輩の恋を頑張ってください、と言うことは簡単だったかもしれない。けれども、それは自分が本当に言いたいことじゃなかった。自分に嘘をついて山岡を見送ることができなかった。どれだけ傷つこうとも、全てを伝えたうえで、送りたかった。そして今、それは達成された。



 さよなら、先輩。