第一話 そして、始まり

染井ヨシノ

「ようやく、辿りつきましたわね」
 長い髪を掻き上げ、白い法衣を纏った女は目下に広がる光景に目を細めた。
「かの人々も、天竺に辿りついたときはこんな気持ちだったのかしら?」
「いや、天竺にしちゃあちっぽけすぎやしませんか? この町」
 髪の短い気の強そうな少女も、その隣で崖の下にある小さな町を眺めながら正直な感想を述べる。
「でもでもっ、これでやっと反撃開始なんだよ! それに、大きな町だと探すの大変そうだし」
 二つくくりの小柄な少女がはしゃぎながら言う。
「ま、そうなんだけどな。上手くいけば今日中に見つかるかもしれない」
「……ですが、見つかったところで、その人物はわたし達に力を貸してくれるのでしょうか」
 今まで黙っていた眼鏡を掛けた少女が口を開いた。
「うーん、問題はそこなんだよね」
「けれど、私達にはその人物の持つ力がどうしても必要なのです。こんなところで躊躇していても仕方ありませんわ。拒まれたら、その時はその時でどうにか(・・・・)すれば良いのではありませんこと?」
 法衣の女は踵を返した。
「参りましょう。我々の要となる方の元へ」
「「「はい!」」」
 法衣の女の明るい表情とは裏腹に、良い返事をして彼女についていく少女達は小声で
「あのどうにか(・・・・)が怖いんだよね。想像したくもないや」
「…もし相手が断ってきたら、命の保証はしてあげられそうにありませんね……」
「まったく、恐ろしい御方だよ……」
 などと戦々恐々としていた。


 その頃。
 とある学校の屋上で、一人の少年が笛を吹いていた。
 少年自身も、もう誰にいつ教わったのかも覚えていない、昔からのお気に入りの曲だった。龍笛の調べはどこまでも染み渡っていく。
(あ、そろそろ昼休み終わるな)
 少年はぐっと伸びをして、笛を布袋にしまい、眺めの良い屋上を後にする。
 毎朝両親におはようを言い、学校では友達と笑い合い、暇な時には景色の良いところで笛を吹く。それが少年――巻原楽(まきはらがく)の生活の全てだった。


「………何が、起こったんだ?」
 教室に帰ろうとしていた楽の目の前には、すでにいつもの風景はなかった。ほとんどの教室が破壊しつくされていた。そして、誰もいない。窓の外を見ると全校生徒が避難し始めていた。
「やべっ…何か知らんが、逃げ遅れた!」
 いまいち状況が飲み込めないながらも、楽がその場から離れようとした時だった。

  バキッ  メキ…

 振り返るとそこには、蛇のような姿をした巨大な「何か」が蠢いていた。
「う、そだろっ!」
「グオオオオオオオオオオオォォォォォォォ!」
 その「何か」は楽を追って、一直線に突進してきた。
(なんで追ってくるんだよ! 俺が何かしたって言うのか? そもそも何でこんなものが学校にいるんだよ!)
 訳も分からず楽が階段を駆け下りようとした時だった。
 ドガッ ガララララッ!
(階段が…)
 触手のようなものが伸びてきて、階段を突き崩した。「何か」が目前に迫ってくる。
「うわ…っ!」 
 楽が己の死を確信したその時、
「――風針(ふうしん)!」
 窓ガラスが割れる音と共に、一陣の風が、楽を飲み込もうとしていた「何か」を貫き、弾き飛ばした。 
その風の源には

(………女の子!?)
 その少女は華奢な体に金色の鎧を身に纏い、明るい色の髪を団子のついた二つくくりにしている。頭には金環をはめている。大きな瞳は強い光を放ち、その姿にはまだ全体的にあどけなさが残っている。
「君は……?」
 思わず問うた楽に、少女が振り向く。
「あたしは……斉天大聖、孫悟空」
「はい…っ?それってどういう…」
「危ない!」
「え……うわ!」
 孫悟空を名乗る少女は自分より明らかに体の大きい楽の腕を掴んで高く跳躍した。
(うそ、人間の範疇越えすぎだろっ! こんなのテレビや漫画の中の出来事じゃないか!)
 楽が目の前に容赦なく展開される非日常に驚愕している間に、少女は楽を連れて着地する。楽は見事に転んだ。
「(ジャマヲ、スルナ!)」
 いきなり頭の中に直接響いてきた声に、楽は顔を上げる。
「(コレシキ………)」
 少女が開けた穴が、「何か」の体を構成する紫色のぬるぬるした粘液によって、ズズッと塞がっていく。
「あんたたちこそ、関係ない人まで巻き込まないで! …君、一旦退くからあたしに掴まってて」
「わ、わかった」
 少女の小声での指示に従い、楽は少女の腕をしっかり掴んだ。
「グオオオッ!」
「キン斗雲!」
 少女が再び跳躍して叫ぶと、白い固まりが割れた窓ガラスから進入し、もの凄い速度で少女の下に潜り込み、足場となった。
「う、わ、わあああああ!」
 楽の叫び声だけをその場に残して、雲は猛スピードで校内を駆け抜けていった。
 楽の方が背が高いので、必然的に少女の乗っている雲に足が触れるはずなのだが、全く感覚がない。下を向いて確認する余裕などない楽には確かめようもなかったが、どうやら楽にはこの雲に乗ることはできないらしい。少女もそれをわかっていて、これから出現する雲ではなくて自分に掴まるように指示したのだろう。

 恐怖に目を見開き、年端も行かぬ少女の腕にしがみつき、男としてはかなり情けない格好でしばらく飛んでいると、調理実習室に辿り着いた。騒ぎが起こったのが実習中だったのか、作りかけの料理がいくつかそのままだ。何故か、ここは片方の入り口以外余り壊されていない。
「降りるよっ」
「あ、うん!」
 助かった、と思いながら、楽は今度は少女と共にちゃんと着地することができた。
「悟浄っ!」
「悟空! 無事だったのですね」
 少女に悟浄と呼ばれた眼鏡の少女は、ほっとした顔で返事をした。額を出すように前髪を分けていて、後ろ髪よりサイドの髪の方が長い。控えめな感じだが、賢そうで清楚な少女だ。胸元に輝く髑髏の首飾りさえ見なければ。
「…この方は?」
「うん、この子が『大乗経典』みたい」
「えっ?」
「……そのようですね。近くに怨魔(おんま)はいましたか?」
「攻撃したけど再生されたから取りあえず巻いてきた。あたしの風じゃ効かないみたい」
「わかりました。賢明な判断です」
「あの、さっきから、君達が何言ってるのか全くわからないんだけど。孫悟空だの大乗経典だの、まるで西遊記みたいな…」
「ご名答」
 振り向くと、さっきまで雲があったはずのところに、一人の幼い少年が立っていた。あの雲と同じように白い、民族衣装のようなものを着ていた。
「かの人々はこの世界に転生を果たした。それぞれに人ならざる力を、神通力を有したまま。それが彼女らであり、お前だ」
「この世界に、生まれ変わった? 神通力?」
「大乗経典がかの人々に授けられた時、万一奪われることがないよう、一人の少女の姿に変えられた。やがて経典が無事納められ、ほとぼりが冷めると、少女は死んだ。それがお前の前世だ。転生してからの人生は幸せであったのだろうが、それも今日で終わる。お前もまた私と同じ、道具に過ぎないのだから」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!いきなりそんなこと言われたって…そもそも君は誰なんだ!」
 一方的に淡々と語り続ける少年に問うと、怪訝そうな顔をされた。
「私はそこにいる、孫悟空が転生した少女が、キン斗雲の術を以て扱う雲に宿るものだ。…小僧、お前が受け入れようが受け入れまいが、お前の運命は決して、変わらぬぞ」
 次の瞬間、少年は消えた。
「こら、琴斗(きんと)! もう…あの子ったらいつも反感買うようなこと、言うだけ言って消えちゃうんだから…」
 孫悟空の生まれ変わりだという少女は、弟に手を焼く姉のように溜息をついた。眼鏡の少女も、人差し指で眼鏡を直しながら、やれやれといった顔をしている。あの不遜な振る舞いは、いつものことらしい。
「あの、さっきの、琴斗って子が言ってたことって…」
「申し訳ないけれど、真実ですわ」
 声のする方に目を向けると、白の法衣を纏った、髪の長い女が、ドアのところに立っていた。
「三蔵!」
「お師匠さま!」
「悟空、悟浄。無事で何よりです」
 少女達にそう微笑みかけた女も、どうやら三蔵法師の転生した姿であるらしい。楽は色々頭がこんがらがってきた。
「まあ、見つかったのね。貴方、今生でのお名前は?」
「あっ、はい。巻原楽って言います。えっと…あなたは?」
 そんなに年が離れているとは思わないのに、何故か敬語を使ってしまった。
「あら、失礼いたしましたわ。私は玄奨三蔵の生まれ変わりで、蔵元(くらもと)波稲(はいね)と申します。ほら、貴女達も名前を教えて差し上げなさいな」
「あわ、忘れてた」
 最初に助けてくれた少女が進み出る。
「あたしの名前は、猿飛(さるとび)真空(まそら)。さっきも言った通り孫悟空の生まれ変わりなんだ。よろしくね、楽くん」
「よろしく!」
 楽はこの状況で何をどうよろしくするのかわからなかったが、真空の笑顔に釣られて、ニッコリ笑って答えた。
「えっと、わたしは沙悟浄の生まれ変わりで、川童(かわらべ)沙悟(さとる)と言います。お見知り置きを」
「あ…うん、よろしく」
(さっきから思ってたけど、この子、なんか可愛いな)
 などと沙悟の可憐さに内心デレデレしていたら、波稲がこちらを見てニヤニヤしていた。案外彼女は前世である三蔵の一般的なイメージとはかけ離れているのかもしれない。
「と、ところで真空ちゃん」
「呼び捨てでいいよ?」
「それじゃあ、真空。何で俺をここに連れてきたんだ? 普通に学校の外に逃げればよかったんじゃ……」
「うん、そうなんだけど…それだとあいつが外まで追いかけてきて、また無関係な人に被害が及ぶかもしれないからね。あいつの狙いは、楽くんだから」
「成る程……って、やっぱり俺が狙われてるのか?」
楽は眩暈を感じるとともに、とばっちりをくらった形の学友達や先生方に頭を下げたい気持ちになった。
「うん。琴斗も言ってたように、楽くんは大乗経典だから」
「そう、なのか……」
 突然巻き込まれて化け物に狙われるお宝役なんて酷い話だ、と楽は肩を落とした。そして、改めて教室内を見渡した。
「何でここだけ、ほとんど元のままなんだろ……」
「そうですね…わたしも気になっていました」
 楽の呟きに沙悟が答えた後、真空があっ、と声を上げた。
「あそこのコンロ、まだ火が着いてる!」
「うそっ! 消せ消せ!」
 慌てて真空の指差す方へ飛んでいった楽が火を消した。
「危ねー…避難する時はコンロの火は消してけって、小学校で習わなかったのか?」
 自分が追いかけられた時の慌てっぷりは棚に上げて楽が独りごちる。その時、沙悟が何かに気づいたように顔を上げた。
「…もしかしたら」
「何?」
「あの怨魔の弱点は火なのかもしれません」
「本当?」
 真空も身を乗り出す。
「ほら、見てください。あそこに…」
 沙悟の指差した先、コンロのすぐ手前には、巨大な物体が進んでいってUターンしたような形跡があった。
「あの化け物が這ってきて逃げた跡か!」
「成る程。コンロの火に驚いたのかもしれませんわね」
「それですぐに立ち去ったから、ここはそんなに壊れてないのか」
 そう納得して、化け物が出入りしたと思われるドアの方を見ると、背の高い少女が見えた。
「あっ、八戒!」
「おっ、お前らこんなとこにいたのか。探したぞ」
 教室に入ってきた、おそらく猪八戒の生まれ変わりである少女は、短い髪と切れ長の瞳を持ち、いかにも男勝りな感じだ。
「無事でよかった。これで全員揃いましたね」
「よく一人でここまでこれましたわね。よしよし」
「ああ!? 子供扱いすんな!」
 ちょっと背伸びをした波稲にいい子いい子と頭を撫でられ、少女は真っ赤になって憤慨している。他の二人が笑っているところからみて、これもいつものことなのだろう。
「……あ? 何だ、このガキ」
「ぐっ!」
 いきなり襟首を掴まれ、ガンと壁に叩きつけられた楽は、何をするんだの意味を込めて少女を睨みつけた。
「八戒、止めて! 楽くんはあたしたちが探していた大乗経典なんだよ!」
「こいつがか?」
 真空の言葉を聞き、少女が手を離す。まともに尻餅をついた楽は、差し伸べられた沙悟の手をとる。
「八戒、後先考えずにすぐ暴力に訴えるのはおやめなさい。私達は彼に懇願しにきた立場なのですよ」
「くっ……すみません、師匠」
「私に謝っても仕方ありません。彼に謝罪しなさい」
「………悪かったな」
 チッ、と盛大な舌打ち付きで、少女が一応の謝罪をした。
「……八戒?
 波稲の明らかに怒った声に少女は一瞬ビクリとしたが、それでも不服そうな態度は変わらなかった。
「………ふう。申し訳ありませんわ巻原殿。後で仕置きはきっちりしておきますので
「そ、そんな…てか、『殿』は止めてください」
「わかりましたわ。巻原『君』?」
 今度こそ思い切りビビりまくった表情で、目を剥いて汗をダラダラ流す少女と、手を取り合って涙目で怯えている他の二人を横目で盗み見た楽は、彼女等のこれまでの旅路を思い、流石にちょっと同情した。
「さ、さっきね、怨魔に襲いかかられてるのを偶然見つけてね、無事に連れてこれて、良かったあ」
 真空は無理矢理話題を変えた。
「ふぅん。世界を救う最もと有り難い経典とされている大乗経典の力ってぇのも、その程度か」
 楽を見下ろし、少女は嘲笑する。が、その裏には怒り、というか苛立ちが感じられた。
「いや……経典自体の力がいかに強大でも、持ち主が使い方すらわかってない、こんなガキじゃあな」
「八戒!」
 今度は真空が諫める。話を振った責任を感じたのだろうか。
「いや、この人の言う通りだよ。…あんたの仲間を危険な目に遭わせて、すまない。真空、ごめんな?」
「楽くん…」
 化け物に襲われた時、確かに自分には何もできなかった。どうやらこの人達は、自分の力を借りるためにここまでやってきたというのに。使用方法のわからない力なんて、意味はないのだ。
「ふん、己の弱さを認めることはできるようだな」
「巻原君は予想以上の大物かもしれませんわね。八戒、さっきから偉そうなことを言っているけれど、貴女も巻原君を見習って己の非を認められるようになりなさい」
 波稲は少女にいい笑顔で言い放った。再び少女が凍り付く。
「と、とにかく、合流できたんですから、皆で怨魔を探しに行きましょう?」
 沙悟がまたおかしな雰囲気になりかけた一行に声を掛けた。
「そうですわね。では、参りましょうか。皆さん」
「「「「はいっ!」」」」
 斯くして良い返事は一人分増えたのであった。
「…あのさ、あんた、名前は?」
 教室を出る時、楽は少女に訊きそびれていたことを問うた。少女はさっきよりかは緩和した表情で答える。
「アタシは猪口燐(いのくちりん)。猪八戒だ」


「……見つけた」
 真空は声を潜めて言った。
「まだ錯乱したまま暴れていますね」
「弱点の手がかりはあるけど…さて、どうやって近づいたもんかね」
「考えがあります」
「言ってみなさい、悟浄」
 悟浄は自分の考えを話した。
「えっ? それってどうすればいいんだ?」
 問うた楽に、波稲が告げる。
「それは―――――」

 廊下に再び、一陣の風が吹く。
「はああっ!」
 真空が如意棒を手に、あの化け物――怨魔の背後へと突進していく。
「伸びろ!」
 真空の声に反応し、如意棒はぐんぐん伸びていく。そして、怨魔の体に垂直に突き刺さった。
「(ナンドヤッテモオナジコト……キカヌ!)」
 如意棒が抜けた途端、また傷口が再生する。真空は丁度、棒高跳びのように怨魔の頭の方へ着地した。
「グアオオオオ!」
 怨魔が真空に襲いかかった、その時
「悟空!」
「(グ…ケッカイカ……)」
 バチバチバチッ、と電気の流れる音をさせて、波稲の張った雷の結界が真空を攻撃から守った。だが、やはり感電によるダメージはないようだ。
「―――――っ」
「(クク……ソウハモツマイ………)」
 怨魔がそのまま押し切ろうとした時だった。ふいに、怨魔が最も嫌悪する存在を感じた。慌て振り返ったが、時既に遅し。
「――――燐炎舞(りんえんぶ)!!」
「いっけええぇ―――――っ! 八戒―っ!!」
 真空が興奮して叫ぶ。燐は怨魔が真空達に気を取られている隙に、思い切り跳躍し、怨魔の背後から飛びかかった。体を上下左右に回転させてその遠心力を利用し、炎の宿った愛用の得物・釘破(ていは)を振り回して怨魔に向かって無数の火の玉を送り出す。それは怨魔の体に勢い良くぶつかり、弾け、怨魔を燃やしていく。一連の動きが、さながら舞のようであった。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 怨魔は体をくねらせ、叫び声を上げる。

 その声を掻き消すように、澄んだ龍笛の音が聞こえてきた。
 炎が深紅から白へと変わり、怨魔を包んでいく。

『それは、怨魔にされた者の解放を祈り、浄化の曲を奏でることです』
 波稲は言った。
『怨魔、という言葉は怨みの魔物、と書きます。あの魔物は、深い負の感情に囚われた人間が、呪いをかけられた姿なのです』
『そんな……その人はどうなるんですか?』
『…放っておけば破壊の限りを尽くした末に、力を全て使い果たし、その人間は……。救えるのは、大乗経典の力だけなのです』
『それが俺の、大乗経典の力…でも、浄化の曲って…』
『貴方には、いつ誰に教わったかも覚えていないけれど、何故か演奏できる曲が一つ、あるはずです。それは、遠い前世の記憶。それこそが経典に記されたことを龍笛の音色で表現した、浄化の曲なのです』
 そして波稲は続けた。
『しかし、他の誰かがそれを真似ても、曲は力を発揮しません。その力を用いることができるのは経典の本体である貴方だけ。貴方が怨魔にされた人間の解放を祈ることが必要なのです…』

「―――水廉(すいれん)
 怨魔がその憎しみごと灰と化した時、燃えさかる炎を消し去ったのは、沙悟の持つ一対の降妖宝杖(こうようほうじょう)から降り注ぐ、清らかな水の流れだった。

 怨魔として囚われていたのは、楽の隣のクラスの女子だった。波稲が言うに、怨魔にされてしまった人間は、その原動力となっている感情以外は意識まで術者に好き勝手に操られてしまうらしい。彼女に何が起きたのかは知らないが、おそらく自分を狙わせるためだけに利用されたのだ。もしも真空達がここに辿り着いていなかったら、罪無き人々が傷付けられ、彼女は人殺しになっていたかもしれない。自分自身もこうして生きていられたかどうか、わかったものではない。
 気を失い、涙を流している彼女を抱きかかえ、楽はひとまず皆が待機している運動場へと向かった。


「………ねえ、本当にいいの? 楽くん」
 荷物を詰め込んだリュックを背負って外に出てきた楽に、真空は問うた。今は鎧姿ではなく、パーカーにスカートだ。額を飾っていた金環は、チョーカーになっている。他の皆もいつの間にか普通の服を着ていて、前世の名ではなく今世の名で呼び合っていた。
「ああ。ここで腹括らなきゃ、男じゃないからな」
(君みたいな女の子が、命がけで戦ってるんだから)
 それは、敢えて言わなかった。
 あの後、波稲が楽の両親に事情を話した。楽は信じてくれっこないと思っていたのだが、意外にもすぐに信じてくれた。何でも、信頼している占い師の先生に「この子には果たさねばならない使命があるからいつか必ず手放すことになる」と言われ(本人は覚えていないが幼い頃はポルターガイストは起こすわいるはずのないものは見えるわで大変だったらしい)、覚悟は決めていたのだという。
 楽は、真空達一行と共に行くことを決めた。
 息子の、頼まれたら断れない性分を知っている両親は、行かせてくれた。一応、海外留学ということにしておいてくれるらしい。
 そんなこんなで必要最低限の荷物をまとめ、ようやく両親との別れの挨拶を終えて現在に至る、という訳だ。
「巻原君。そろそろ出ますよ」
 波稲の声がした。すぐ側で一頭の白馬が某ロボットよろしく一台の車に変形し、流石に卒倒しそうになった。彼女(雌なのだろう)は玉龍(ぎょくりゅう)というらしい。キン斗雲は楽の予想通り術者である真空しか乗れないので、彼女に頑張ってもらっているとのことだ。

 やがて全員が乗り込み、車が動き出した。 楽はもう一度だけ、我が家に目をやる。

 両親ともろに目が合ってしまった。外に見送りには来るなと、あれ程言ったのに。

 二人共泣いていた。泣いていたけれど頑張って、笑って手を振っていた。元気で行って来い、そしていつか帰ってこい。そんなありったけの気持ちが込められていた。
 楽も笑顔で手を振った。勝手に窓を開け、身を乗り出し、英雄になって帰ってきてやると、笑って両親に手を降り続けた。涙で顔はぐちゃぐちゃだったが。

 やがて何も見えなくなると、楽は泣いた。家族と、周囲の人々と、二度と会えないかもしれないということは、よくわかっていたから。
 自分の膝に突っ伏して泣いていると、隣の真空が心配そうに覗き込んできた。何だかたまらなくなって、彼女の小さな体にしがみついた。真空は楽の情けない姿にも何も言わず、ただ黙って抱きしめていてくれた。


 胸躍るような冒険の旅は、しょっぱい別れから始まった。



JACKPOT58号掲載
素材:Studio Blue Moon

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