おにぎり一揆

染井ヨシノ

 ふと青空を見上げてみる。
 街中に秋のにおいが近づいていた。
「おい」
 声をかけられて、空を見ていた少女――美緒は振り返る。同級生の衛が呆れたようにこっちを見ていた。
「なに道の真ん中でボーッとしてんだ」
「あ、おはよう衛くん。今日はいい天気だから、空がきれいだなって」
「空なんていつも同じだろ。また遅刻するぞ」
「そんなことないよ、ってちょっとまってよ」
 置いていかれないように美緒は駆けだした。

大野美緒にとって、吉村衛という少年は特別な存在であった。小学二年生の美緒はだんだん女友達とばかり遊ぶようになったが、衛だけは別だった。衛の方も他の女子とは口もきかないのに、美緒に対してはむしろ世話を焼いているくらいだった。


 二人の出会いは去年、小学校に入学した日に遡る。
「よろしくね、衛くん」
 美緒が、隣の席になった衛に声をかけたのが始まりだった。衛は終始無表情で、その時も黙って頷いただけだったが、美緒はそれでも嬉しそうに笑っていた。
 振り仮名つきで名前の書かれたシールが貼られているだけの、ぴかぴかの机。入学祝いに買ってもらった、新品の筆箱。真っ白な上靴。美緒は幼い子供から一歩成長する喜びと誇りで輝いていた。衛は隣で、その素直さを眩しく感じていた。

 しかし帰宅後、事件が起こった。
「クロ〜! どこ!?」
 飼いだしたばかりの仔犬のクロがいなくなってしまったのだ。散歩の途中、美緒は転んだ拍子にリードを放してしまった。元気の有り余っているクロはそのまま走っていってしまったのだった。
「クロ…どこにいるの…」
 美緒は目にいっぱい涙を溜めながら、夕暮れに染まり人のほとんど見えなくなった小道を走り続けた。
「――おい、どうした」
 突然声をかけられ、びくっとして美緒が振り向くと今日隣の席に座っていた少年が、そこにはいた。
「衛、くん…」
「なにか探してるのか?」
「クロが…犬がいなくなっちゃったの…」
「どこで見失ったんだ?」
「え…いっしょに探してくれるの?」
 衛はまた黙って頷いた。
 しばらくして、クロは無事に見つかった。結局、美緒が転んだ場所からそう遠くないところにいたのだった。
「クロ〜!! もう、心配かけて…」
 美緒はクロを抱きしめて泣いてしまった。クロは不思議そうな顔で尻尾を振っている。
「……よかったな」
「ありがとう! 衛くん」
 衛はふっと笑った。美緒が初めて会ったときの輝きを取り戻したことを、衛は嬉しく思ったのだった。
 クロが尻尾を揺らしながら、少し前を歩いていく。二人は他愛のない会話を交わしながら、夕焼け色の道を一緒に帰った。

 しかし、このときはまだ美緒は衛が人知れず抱えているものを知らないでいた。


 そして二年生で再び同じクラスになった今でも、二人は相変わらず仲が良かった。それぞれに同性の友達もたくさんできたが、それでも親友と呼ぶのはお互いのことだけだった。

 終礼のとき、担任は生徒たちのほとんどが心待ちにしていることについて話した。
「もうすぐみんなの楽しみにしている遠足の日です。あなたたちにとっては二回目ですね。先生方のいうことをよく聞いて、楽しい遠足にしましょう」
 一気にクラス中が色めき立った。礼をして解散した後も、話題は遠足のことで持ちきりだ。美緒も、仲の良い友達とそのことで盛り上がっていた。
 しかし、美緒は突然友達に別れを告げると、急いで帰り支度をして教室を出た。何気なくドアの方を見たとき、浮かない顔をした衛が一人で帰ろうとしているのを見てしまったのだ。美緒の頭の中では、胸の奥にしまっていた嫌な出来事が思い出されていた。
「いっしょに帰ろ?」
 衛に追いついた美緒は声をかける。衛は一瞬たじろいだが、頷いた。やはりいつも一緒に帰っている友達とは帰らず、一人で帰るつもりだったようだ。
 しかし、衛が落ち込んでいる理由に気づいた美緒は、一人きりでいるのもかえって辛いだろうと思い、せめて話だけでも聞いてやれれば、と考えたのだった。

そうして一緒に帰ることになったものの、美緒もどう声をかけていいものかわからず、結局二人は黙って歩いていた。
「衛くん、今度の遠足…」
「行きたくない」
「…そうだよね」
 ついに沈黙に耐えられなくなった美緒が切り出すと、予想通りの言葉が返ってきた。


 去年の遠足でのこと。
 皆で弁当を食べるとき、美緒は衛がどこにもいないことに気づいた。
(どこに行っちゃったのかな?)
 今日の衛はやけに元気がなかったので、余計に心配だった。
 母が気合いを入れて作ってくれた弁当。お揃いの巾着に包まれた弁当箱の中には、たこさんウィンナー、ミートボール、玉子焼き。せっかくの弁当なのだから、衛と一緒に食べたかった。以前、家に遊びにいったときに会った衛の母は、しっかり者で優しかった。きっと衛の弁当も凝っているに違いないと、美緒は思っていた。

 美緒は周囲を探していたが、なかなか見つからない。普段暮らしている街とは全然違う、植物でいっぱいの森の中を進んでいく。
「あ、衛く…」
 ようやく衛を見つけたとき、美緒はなぜ衛が皆のところにいなかったのか理解した。
 衛の弁当は、コンビニのパン一つだった。
 たこさんウィンナーも、ミートボールも玉子焼きも、弁当箱さえも見当たらなかった。衛の手の中のそれからは、子供のために弁当を作る母親の姿は見えなかった。
「あ……」
 突然現れた美緒の姿に驚いた衛は顔を上げた。そして、すぐに悲しそうな表情になって俯く。
「……一人で食べるから」
 困惑する美緒に、衛が声を絞り出すようにして言った。美緒はどうしていいかわからず、ただ言われるままにその場を離れるしかなかった。皆のところに戻り、他の子たちが楽しそうにからあげやポテトサラダの入った弁当を食べているのを見たとき、言葉では言い表せない感情が美緒の中を駆けめぐった。


 あのときと同じ気まずさを感じ、美緒はこのままではまた何も出来ずに終わってしまうと思い、今度こそはちゃんと衛の話を聞こうとした。
「お母さんは今も忙しいの?」
 衛は頷く。
 衛の両親は共働きだ。二人とも毎日朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。そのため学校行事にもなかなか出席することができない状態だった。
 衛の母は、衛に弁当を作ったことがない。
「ねえ、衛くん。私、思うんだけど…」
「…なに?」
「言ってみたらどうかな。お母さんに、お弁当作ってって」
「……無理だよ。母さん、この間会社で新しい仕事を任されて大変なんだって言ってた。家でもずっとパソコンに向かってるし…」
「でも、言ったことないんでしょ? だったら、もしかしたら大丈夫かもしれないじゃない。衛くんのお母さんはきっと、ちゃんと衛くんの話聞いてくれるよ」
「そう…かな。そう思う?」
「そうだよ。ね?」
「……そうだよな。俺、今日母さんが帰ってきたら言ってみる」
 一生懸命な美緒の言葉のおかげで、衛もようやく少し気が楽になったようだ。その後すぐに二人の話題は、今朝の全校集会で校長のカツラが風に飛ばされたことに変わった。


 その夜、衛の母が帰ってきた。
「おかえり」
「あら…ただいま、衛。まだ起きてたの?」
「うん…」
 母は上着を脱ぐと、衛のいるリビングのソファーに腰掛けた。
「ご飯は食べた?」
「うん、もう食べた。宿題も終わらせたし」
「そう、偉いわね」
(今なら言えるかな…)
「あの、母さん……」
 衛が少し緊張気味の声で切り出そうとしたとき、その声は母の言葉に掻き消された。
「あなたって本当に手のかからない子ね。助かるわ」
 衛はぴく、と震えて固まった。
「よその奥さん達の話聞いてると大変だもの。二年生くらいになると生意気な態度とるようになるし、他の子は皆持ってる、あれ買えこれ買えって駄々捏ねるし。男の子は特に、部屋散らかすし暴れるし。けど衛は何でも一人で出来て、家のお手伝いも進んでしてくれるから、母さんいつも感謝してるのよ」
 衛が息を呑む。嫌な汗が流れてくるのがわかった。
「ありがとうね、衛。いい子でいてくれて」
 言える訳がなかった。


「衛くん…どうしたの?」
 次の日、昨日以上に落ち込んでいる衛を見て、美緒は驚いて声をかけた。
「帰りに話すよ…」
 衛はそれ以上何も言わなかったので、美緒は放課後を待つしかなかった。


 帰り道で、衛は昨夜のことを美緒に話した。
 美緒は黙って聞いていたが、衛が全て話し終えると、俯いて少し考えこんだ。
「…言うべきだよ」
 美緒は急に立ち止まった。衛が振り向く。美緒はゆっくりと顔を上げると、つかつかと衛に歩み寄った。そして、衛の肩をガシッと掴んだ。
「言うべきだよ! 衛くんの思ってること…衛くんのお母さんが衛くんのこと、手のかからない『いい子』だと思ってるなら、なおさら!」
 美緒は衛の目をじっと見つめた。
「でも…俺は、母さんに迷惑をかけたくないんだ!」
「迷惑だなんて思うわけない!」
 びく、と衛が後ずさる。美緒は肩を掴む手に力を込めた。
「私が家に遊びにいったとき、お母さん私にこっそり『うちの子とこれからも仲良くしてあげてね』って、言ってたもん! お母さんは衛くんのこと考えてくれてるよ! だから、どんなに忙しくたって、衛くんのお願いを迷惑だなんて思わないよ…」
 衛は目を見張る。美緒は衛の肩から手を放した。
「だから、衛くんがしてほしいこと、ちゃんとお母さんに言ってあげなきゃ。お母さんは気づいてないだけなんだから…」
 美緒は今までのどんなときより真剣な顔をしていた。
「…ありがとう、美緒」
 衛は肩の荷が下りたような気がした。
「もう大丈夫。今日は絶対言える」
「衛くん…」
美緒は、ぱっと顔を輝かせた。衛も少し照れくさそうな笑顔を見せた。


「ただいま。今日も起きてたのね?」
 衛の母は今日も夜遅くに帰ってきた。
「おかえり、母さん。俺、頼みたいことがあるんだ」
 衛はソファーから降りて、母の目の前に立った。
「遠足の日、お弁当作ってほしいんだ」
 母は驚いて衛の顔を見た。
「おにぎり一個でも、なんでもいいんだ。俺、遠足のときは、母さんの作ったお弁当が食べたい!」
 母はそっと衛に近づいてきた。そして、いきなり衛を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね。母さん、きっとお弁当作るからね。約束するからね」
 衛は本当に嬉しそうに笑った。そして、母をぎゅうっと抱き返した。しばらくして離れたとき、母が泣いているのに気づいた衛はひどく驚いた。


 遠足当日。
 美緒は衛の手元をわくわくしながら覗きこんだ。
「……あ!」
「…ははっ! すげーな、ほんとにおにぎりだよ!」
 そこにあったのは、ふりかけが混ぜ込んである、色とりどりのたくさんのおにぎり。
 母が作った、衛のお弁当だった。
 美緒はあっけにとられ、衛は珍しく腹を抱えて大笑いしていた。
「まあ無理もないか。お弁当にどんなもの入れるもんなのか知らないんだから」
「えっ?」
「母さんもな、親が忙しくてお弁当作ってもらったことなかったんだってさ」
 美緒はびっくりして衛を見た。
「俺に言われて思い出したんだって。自分も子供の頃、お弁当作ってほしいと思ってたこと。自分の子供には絶対作ってあげようと思ってたこと。それにしたって泣くこたないよな。お弁当のことくらいで」
「ふーん。じゃあ『お弁当のことくらいで』二日間も落ち込んでたのはいったい誰?」
 顔を見合わせ、二人は笑った。

「美緒ちゃーん、吉村くーん! いっしょに食べよー」
 向こうから美緒の友達が手を振って二人のところにやってくるのが見えた。衛の友達もいる。手を振り返してから、衛はこっそり美緒に囁いた。
「美緒、お前は自分の子供にちゃんと、お弁当作ってやらなきゃだめだぞ」
 それを聞いた美緒は、とびっきりの笑顔で答えた。
「絶対作るよ! 衛くんにも、ね!」





JACKPOT59号掲載
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