の嫁入り

染井ヨシノ

このはっきりしない天候が嫌いだ。
ようやく補習から解放された天宮日路樹(ひろき)は、太陽が出ているのに雨粒の落ちてくる中途半端な空を見上げた。
(こういうの、なんて言うんだっけ・・・まぁいいか)
そんなことを考えながら、濡れるのも構わずだらだら歩いていたときだった。
(あれ?視線が・・・)
しかし、背後には誰もいなかった。
(気のせいかな・・・・・)
特に気にせず、再び前を向いたとき、横断歩道に何か小さなものが飛び出してくるのが見えた。たまたま大きなトラックが道を曲がってきたところだった。
(・・・!)
危ない、と思ったときにはすでに体は飛び出していた。


(痛・・・っ)
運転手が窓を開け、大丈夫か、と叫んだのを聞いて、やっと自分の置かれている状況が見えてきた。そして、自分の腕の中にあるものに目をやった。


───狐、だった。
その瞳が黒ではなく鮮やかな赤に見えたので、天宮は一瞬目を見張った。
腕の力が緩んだ途端、その狐は脇の茂みへと消えてしまったので、それが見間違いだったのかどうかは、もうわからない。



(なんか昨日は散々だったなぁ・・・)
翌朝、クラスの自分の席に腰を下ろした天宮はまだ痛む肘をさすりながら溜息をついた。幸い狐を抱いて落ちたのが反対側の歩道だった為、轢かれずには済んだのだが、代わりに肘を思い切り打ち付けたのである。そもそも、何で狐を庇ったりしたのだろうか。
心配した顔で母親に問われても、何も答えられなかった。この辺は割と田舎なので狐や狸が出たり、交通事故にあったりするのなんて日常茶飯事なのに、何故あの時に限ってあそこまでしたのだろう。
「おはよう! 天宮君。怪我はもういいの?」
「あ、おはよ。大丈夫、たいしたことないから」
物思いに耽っていると、同じクラスの加藤(ゆかり)が声をかけてきた。赤の細いリボンを結んでいて大きな瞳をした可愛い子だ。天宮にとって、この少女は所謂「憧れの存在」と言うやつであった。とは言っても、同じことを思っている男子は掃いて捨てる程いるのだが。何故昨日のことを知っているのか、一瞬疑問に思ったが、偶然見かけたか見た人に聞いたのだろう。悪いことをした訳ではないが、ちょっと気恥ずかしい。「今日ね、転校生が来るんだって」
「転校生? 先生そんなこと言ってたっけ」
「家の都合で、この時期にかなり急な転校になっちゃったんだって」
「へぇ・・・」
丁度、チャイムが鳴った。「はい、早く席に着いて─」あちこちからガタゴトと椅子を引く音がした。



教室のドアが開いた瞬間、ざわめきが起こった。
「今日から君たちの仲間になる、伊成(いなり)(ほむら)さんだ。突然の転校で何かと不便も多いだろうから、進んで手伝ってあげるように。・・・じゃあ、伊成さんからも自己紹介して」
「はい」
転校生の少女、伊成焔は抑揚のない声で答えた。腰まである長い髪。意志の強い、つり上がった目。背は高くスラッとしていて、大人っぽい印象だ。しかしその整った顔には、年頃の少女らしい表情は見えなかった。
「伊成です。よろしく」
「四露死苦ぅ!」
お調子者の沢田が隣の新谷さんに殴られた。
「それじゃあ、そこの空いてる席に座って」
そんな様子に苦笑いしながら先生が指さしたのは、天宮の、隣の席だった。


「えっと・・・よろしくな」
天宮は少しどもりながら言った。
「・・よろしく」
伊成の表情が若干緩んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


朝学活が終わってすぐ、級友達が周りに集まってきた。
「ねぇ、伊成さん!」
先陣を切ったのは加藤だ。「・・何」
「聞きたいこと、たくさんあるんだよ。ね、皆!」
ギャラリーが総じて頷く。伊成は相変わらずの無表情だが、加藤は気にせずニコニコ笑って伊成を質問責めにした。伊成も伊成で、簡潔にではあるがちゃんと答えていたので、天宮はほっとした。徐々に周りで見ていた連中も、口々に声をかけ始めた。隣で友人達から散々つつかれた天宮は、正直そんな級友達のはしゃぎっぷりが不快だった。


そんな日の放課後。
「帰り、こっちなの?」
思わず声をかけた。
無言の頷きで肯定した伊成は、やや前を歩く天宮の隣に早歩きで並ぶ。
「そうなんだ。今日、大変だっただろ? うちのクラス皆騒がしくてさ。どんだけヒマなんだよっていう・・・」
「・・・・」
「えっと・・・」
妙な空気に、天宮は自分を情けなく思った。さっきは皆がいたが、今ならこの少女と話せると思って声をかけたのだがこのザマだ。何を言えばいいか分からない。視線すらまともに合わせられやしない。
黙々と歩き続けていた伊成が急に立ち止まった。
「・・家、こっちだから」
視線を向けた先は、天宮の家とは反対側の分かれ道だった。
「それじゃ・・」
「あ、伊成さん!」
天宮の声に、伊成が振り返った。
「明日から、一緒に、いかない?」


「わかった」
我ながら馬鹿なことを言った、と思った。突然、何を言っているのだろう。もっと話がしたい、と言うだけの理由で、女の子に。いくらなんでも稚拙すぎる。
だからこそ、思いがけない返答に、驚きと喜びが込み上げる。
「ありがとう! 待ち合わせはここで、時間は八時くらいでいいかな?」
伊成はまた首だけで肯定を示した。
「じゃあ、また明日!」
「・・・うん」
笑顔を見たのは、それが初めてだった。


(あ、また何か・・・)
昨日感じた視線がまた背後にあるような気がしたが、やはり誰もいない。
(疲れてんのかな・・・・・・)
天宮は早く帰って寝よう、と先を急いだ。



それ以来、二人は通学路で、教室で、言葉を交わすようになった。忘れてきた伊成に天宮がシャーペンを貸してやったり、居眠りしているところを当てられた天宮に伊成がページ数を教えてやったりしている間に、二人の距離は少しずつ近づいていく。伊成自身も少しずつだが、天宮の友人達とも話すようになりクラスに馴染みつつあった。
その日も、ただそんな関わり合いが続いていくのだと、天宮はそう思っていた。

「天宮君、伊成さん、おはよっ!」
「わっ、加藤さん!?」
「・・・おはよう」
いつものように二人で登校していたら、加藤に声をかけられたのである。
「・・へぇ、本当に毎朝二人で学校来てるんだ。仲良いんだね」
(あいつら・・何勝手に言いふらしてんだ!)
楽しそうな約数名の顔が浮かんで、天宮は頭を抱えた。
「あっ、あのね、天宮君・・」「え、何?」
「今日の放課後、中庭の噴水の前に来てほしいの・・・一人で」
「え・・えぇ!?」
天宮の思考回路はショート寸前だった。これはどういうことだ。ひょっとしたら、ひょっとすると言うのか。
「わ・・わかった! 部活終わったらすぐいくっ!」
「ありがとっ! 待ってるね」
その笑顔で更に天宮の動悸を激しくして、加藤は去っていった。


「アンタ・・天宮君に怪我させて、なんとも思わないの?」
「!」


「マジか・・・マジかよ・・・・」(今のは・・)
「天宮君、あの」
「ん?」
伊成の声が余韻に浸っていた天宮を現実に引き戻した瞬間に、非常なチャイムが鳴り響いた。
「やべっ、走るぞ!」
「・・・・・っ」
二人は全く違う思いを抱えたまま、共に校門へと駆け込んだ。



天宮にとっては、待ちわびた放課後がやってきた。部活を部長に頭を下げて早々に切り上げると、真っ直ぐに中庭へと向かった。


「・・・伊成さん、どうしてここに?」
「・・天宮君」
腕を組んで壁にもたれていた伊成が、つかつかと近づいてくる。
「加藤さんには、会わない方がいい」
「なんだって?」
「本当に、なんの違和感もないの?」
天宮には訳が分からない。「今朝、加藤さんはあなたに用事はないのか、一度も確認しなかった。大体、何故彼女が事故のことや私達が一緒に登下校してること知ってるのか、疑問に思わなかった?」
「なっ・・・なんで君にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!!」
伊成の肩がビク、と震える。
「今朝のことは慌ててただけだろ。登下校のこととかは誰かクラスの奴に聞いたんだろうし。てか、なんで君が転校してきた日に、君がクラスに入ってくる前にしてた話を、君が知ってるんだよ!」
伊成は、口を閉ざした。
「・・・ひょっとして、ずっと俺を見てたの・・・・君なのか?」
伊成は黙ったまま。
───肯定も、否定も、しない。
「・・・っ、もう、信じられねぇよ!!」
天宮は伊成を振り切るように駆け出した。


中庭にはまだ誰も居なかった。
天宮は息を整えながら、少しずつ平静を取り戻した。(・・言い過ぎた・・・)
良く考えてみれば、二度目に視線を感じたときには前の道を歩く彼女の姿がまだ見えていたのだ。あの視線が伊成のもの、というのはありえない。加藤の態度が気になったというのも、加藤が天宮を軽んじているのではないかと心配して言ってくれたのだろう。
(俺、嫌な奴だよな。いくら加藤さんが好きだからって、あんな・・・)


「天宮君!」
「あっ、加藤さん・・・」
「天宮君・・私には、天宮君が必要なんだよ。だから・・・・・・」




「死んで」



「う、わぁぁぁあっ!!!」
何か黒い蛇のようなものに締め上げられ、天宮は悲鳴を上げた。
「ふふ、この小僧、まんまと騙されおったわ!」
それは、獲物を捕らえて高笑いする加藤・・・だったはずの化け物の髪だった。
「では、邪魔が入らぬ内に上質の魂を頂くとするか・・・・」
───魂を、取る。
(俺・・ここで死ぬのか・・そんな、だってまだ・・謝って、ない。伊成さん、に)


「この、恥曝しが」
一閃。化け物が炎に包まれる。
「妖怪変化の、風上にも置けない」
目の前に立っているのは、よく知っている、長い髪の。
だが、違う。あの少女にはあんな獣の耳や尻尾も、鋭い牙も生えてはいない。瞳も燃えるような赤などではない。
───あの狐ではないのだから
「くそ・・・狐、めぇ・・ぐ・・あぁ・・」
化け物は、灰となって消えた。
「伊・・成さん?・・伊成さんが・・狐・・・」
狐───伊成が振り返った。
「・・ごめん」
「・・・なんで謝るんだよ」
「自分の口で、天宮君に言わなきゃいけなかったから・・・」
「俺こそごめん! 何も知らないで、あんなこと言って・・!」
伊成は、天宮が下げた頭を上げさせる。穏やかな顔だった。


「天宮君、帰ろ」
いつも通り、二人で。
「・・・・うん、帰ろう」


「あーまた雨降ってるよ」
「・・・傘、持ってるよ」
「入れてくれ!」
「・・うん」


今日もまた、晴れているのに、雨。
「雨、嫌いなの?」
「てゆーかこの状態が。太陽出てて雨も降ってるって、やっぱ変だって」
「・・くすっ」
「・・・何」
「天宮君、この天気の名前、知ってる?」
「・・・・・何だっけ」
伊成は、これまでで最高の笑顔で答えた。





「『狐の嫁入り』・・・・・」



JACKPOT57号掲載
背景画像:NOION

閉じる