電車に花

染井ヨシノ

「――先輩。先輩っ! チッ、起きろよ藤波薫!」
 背中に衝撃を感じ、俺は後ろにいる園芸部の後輩を睨みつけた。おそらく、俺のシャツにはこいつの足跡がくっきりとついているはずだ。今、俺の機嫌が物凄く悪いのはこいつも知っているくせに、いつも通りに容赦がない。
「…お前、それが先輩に対する態度かコラ」
「あは、おはようございます藤波先輩。本当にどこでも寝ますよね、先輩って」
「あくまで俺の話はシカトするわけだな」
「当たり前じゃないですか。藤波先輩だし」
 笑顔で俺の何かを全否定してくるこいつは夜桜千春。愛らしい容姿とおっとりした雰囲気で女子には大人気だが、俺からすれば只の毒舌で胡散臭いチビだ。
「で、何だよ?」
「何だじゃありませんよ。追いかけなくてよかったんですか?」
 さっきのあいつの顔を思い出しながら、俺は言った。
「……いいんだよ、あんな奴」

 俺は、部長である森村荊と喧嘩をしたのだ。森村と俺は、彼女がうちの花屋に客として来たのがきっかけで親しくなり、一緒に園芸部を立ち上げた。気の強い彼女にこき使われたりしながらも、俺達は結構上手くやっていたのだが。
 俺がジャージから着替えて部室へ行くと、何故か森村が腹を立てていたのだ。
「藤波!」
「ん? どうかしたのか、森村?」
「あんた、野原さんと何喋ってたのよ」
「えっ…と、それは」
 野原小百合というのは夜桜と同様うちの部の一年で、いつも明るく笑っている可愛らしい少女だ。確かに彼女と話をしていたが、内容が内容なだけに森村に言うのは躊躇われた。
「ただいま帰りましたぁ〜っ! あれ、どうしたんですか」
「野原さん。今こいつと何話してたのよ!」
「えっ、あ…それは……」
「言いなさい!」
「やめろよ、森村!」
 俺は野原さんに食ってかかっていた森村を引き剥がした。
「何するのよ!」
「それはこっちの台詞だ! 野原さん怖がってるじゃないか」
「じゃあ、何話してたのか言いなさいよ!」
「それは…」
 俺が口籠ると、森村はそっぽをむいた。
「そう。やっぱり二人はそういうことだったのね」
「はあ?」
「…帰る!」
「えっ、おい森村!」
 森村は鞄を引っ掴んで部室を出ていってしまった。一瞬見えた彼女の表情が泣いているように見えて、俺はただ立ちつくすばかりだった。


 夜桜が俺を起こしたのは下校時刻のチャイムが鳴ったからだった。申し訳なさそうにしゅんとしている野原さんと彼女を気遣う夜桜、そして俺の三人で駅まで黙って歩いた。欠けているのは森村一人なのに、どうしてこんなに寂しいのだろうか。
 今更、追いかければよかったなどと後悔しながら、駅前のベンチのところにまで来ると、見慣れた少女の姿があった。
「森村…」
「あ…皆……」
 びく、と震えた森村は、やはり泣いていた。なぜだろう、俺まで胸が痛くなってくる。
 森村は立ち上がり、その場からまた走り去ろうとした。

「待てよ!」
 俺は、今度こそ彼女を追いかけ、走りだした。涙の理由を訊くために。
「ど…どうしよう、千春くん。私達も追ったほうが…」
「いや、その必要はないと思うよ」
「でも…部長さんが」
「大丈夫。森村先輩の勘違いなんだし」
「そう、だよね! 大丈夫だよね、あの二人なら」
「あは、やっといつもの調子に戻ったね、野原さん。それじゃ僕達はゆっくり歩いて帰ろうか」


 森村は駅の改札口を通って、階段を駆け下りていく。彼女はかなり脚が速い。いつもなら、体力はあっても運動とは縁のない俺が追いつくことなど不可能だ。しかし、今は違った。火事場の馬鹿力というやつだ。なんとか彼女が飛び乗った電車に転がり込むことができた。
「はあ…はあ…」
「な…何で…追いかけて来るのよ」
「お前が、泣いてたから」
「ほっとけばいいじゃない! あんた野原さんに告られたんでしょ! 知ってるわよ、あんたが野原さんのこと好きだってことくらい…」
 俺はやっと、森村がとんでもない勘違いをしていることに気がついた。
「……ほっとけるかよ」
 周りの人々の視線も気にせず、俺はようやく自覚した感情を言葉にした。
「好きな奴が泣いてるのに、ほっとける訳ないだろっ!」
「えっ」

 その瞬間、電車が一旦停止したために、つり革を持っていなかった森村の小さな体は、俺の胸に飛び込んでくる形となった。
「あ…っ」
「大丈夫か? 森村」
「大丈夫じゃ、ない」
 森村は俺の背中に手を回す。 「お店手伝ってるの見かけてから、ずっと…あんたが好きだったの。せっかく声掛けて、部活作ったのに私、ちっとも可愛くなくて…あんたは私と居るより、一人で花壇の手入れしてるときの方が楽しそうだし、やたら野原さんと仲いいし…っ」
 それであんな勘違いしたのか。俺って結構こういうの鈍い方だったんだな。
「…可愛いよ、お前は」
「本当?」
 森村が俺を見上げる。
「好きよ…藤波が、好き」
 俺はぎゅっと抱きしめる。俺の腕の中の、森村という、世界で一番可憐な花を……。
 慣性の法則に後押しされる形で想いが通じ合った俺達が、周りの乗客からの拍手に顔を真っ赤にするのは、それから数秒後のお話。

 その頃。
「どうしたの? 野原さん」
「あのさ…千春くん、部長さんの勘違いだって知ってるんだよね?」
「うん」
「ってことはまさか…私と藤波先輩が話してたの…」
「ごめん、聞いちゃった☆」
「えええぇぇっ!」
「そのことだけど、僕は藤波先輩のアドバイスに従えばいいと思うよ? 本人も今頃やってそうだし」
 真っ赤になって俯いていた野原さんは、その言葉に顔を上げる。
「千春くん。私はあなたが――…」




2008年文化祭特別号『ff』ω掲載
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