ひと時の想い

千里たつき

一.
 秋が来た。

 彼女は文化祭実行委員をしている。夏休み前に友人から推薦されたのだ。
 彼女とは割と仲が良いので、推薦されたとき彼女の表情が満更でもないと言っているのが俺には分かっていた。普段積極的に目立ったり、クラスの中心になったりはしない子なのだが、人の役に立つのは好きらしい。
 だから俺は、忙しく働き回ったり俺たちクラスの連中の世話を焼いたりする彼女を、鬱陶しいとか物好きだとかは思わない。彼女は立派に実行委員としての役割を果たしているだけだし、何より生き生きとしているのだ。
 そんな姿は俺にとって、むしろ好ましく思われる。


 などと考えていた俺は昼休み、食堂の前で数人の男子と話し込んでいる彼女を見かけてどきりとした。意外だが、彼女は男子に人気があるのだろうか。
 そう思い、思った次の瞬間に俺はその疑問を打ち消した。彼女と話している彼らは上級生で、その場には確かにもう一人女子が居ることに気付いたからだ。
 すぐに早とちりをし、その上妙に深読みしすぎてしまうのは俺の良くない癖の一つである。
 ようやく落ち着き、改めて見ると彼らの顔には見覚えがあった。
 いつだったか―――そうだ、初夏に行われた体育祭の最中、俺たちの前を通りかかった彼らを彼女が紹介してくれた。彼らは彼女の部活の先輩である、と。

 溜め息をつく。
 無意識のうちに安堵したようだ。
 と言っても、俺は彼女のことをさる対象として意識しているという訳ではない。
 ただ彼女に―――数少ない女友達である彼女に、自分の知らない意外な面がある。そのことに気付いてしまったが為に、僅かに歯痒さを覚えただけだ。
 安堵した後、俺は自身の自意識の過剰さに恥じ入った。
 俺にとって彼女は貴重な存在だが、だからといって彼女にとっても、よく話をする男子がそうであるとは限らないのだ。俺はそれさえ分かっていなかった。
 これまで異性との接点など、皆無に等しかったのだから無理はないが、我ながら情けない。



二.
 かくして文化祭は無事に終わり、我がクラスはどこよりも団結したものとなった。これも懸命に働いてくれた彼女のお陰だと俺は思う。
 騒々しい打ち上げの最中、それを伝えようとして腰を浮かすと、彼女の方から近付いてきて声をかけてきた。
 俺をあだ名で呼んで、お疲れさま、と。
 先を越されたことに苦笑し、労をねぎらう言葉をかけてやると、彼女はそうかな、とはにかんだ。
 微かに朱が差している。常に笑顔を絶やさない彼女でさえ、初めて見せる笑い方だった。
 対する俺も、どうやら似たような表情になっていたらしい。彼女が友人たちの群れに戻ってゆくと、この様子を盗み見ていた奴等から散々からかわれてしまった。


 その時から、彼女は俺のことをあだ名で呼ぶようになった。
 このあだ名は普段俺の友人らが俺を呼ぶ呼び方と同じものである。母親が俺を呼ぶのを聞きつけたのか、入学当初にクラスメイトの一人が呼び始めた。
 俺としては当然不本意なので、可能なら何奴(だれ)にも呼んで欲しくはないのだが、彼女から呼ばれた時は嫌な気がしなかった。
 これまでより親しくなれたような気がし、内心喜んでいたのかも知れない。



三.
 冬が来た。

 彼女は背中まで長く伸ばしていた髪を切ってしまった。肩にも僅かに届かないほどの長さである。
 風に吹かれては覗くうなじが寒々しいので、わざわざこの時期に切った理由を問うと曖昧に返される。
 俺は文化祭前から殆ど変わらない日々を過ごしていたが、彼女の日常には何かしら変化が起こったのだろう。ただ彼女の友人たちが、俺の前でそのことに敢えて触れようとはしないと様子から推察するに、言及してはいけないらしい。


 その日の昼休み、数ヶ月ぶりに彼女が食堂の前にいるのを見かけた。俺は友人がパンを買うのについて来ていたのだが、彼女はパック飲料の自動販売機としばらく睨み合っていた。やがて買う飲み物が決まったようで、輝くような笑顔になり、傍らに立つ自分より背の高い人物に何か伝えていた。
 その直後、パンの入ったビニール袋を提げた友人に急かされた俺は、彼女の隣に立つ人物の性別さえ知ることが出来ないまま、急ぎ教室に戻らなければならなくなった。
 余談であるが、普段は教室で友人たちと共に昼食をとっている彼女が、この日は予鈴が鳴るまで戻ってこなかった。


 彼女とその友人たちとの会話に、聞き慣れない人名が度々上るようになった。名字呼びなので性別は分からないが、どうやら先輩の一人らしい。やはり何かあったようだ。

 おめでとう、という言葉が聞こえた。
 それは彼女の友人の一人であり、俺とも比較的よく話す女子が彼女にかけた声だった。
 何かあったのか、という、ここ数日間言いたくとも言えなかった言葉を口にしてみた。たとえ答えを得られなくとも、祝いの言葉は告げるつもりでいる。
 すると彼女は口篭った。何か言おうとしては目を伏せながら口を噤(つぐ)み、また何か言おうとして口を開くことを繰り返す。
 ついに彼女の友人がじれったそうに口を開き、いい人がいて幸せなんだよね、と言ってにやりと笑んだ。
 彼女はというと、一瞬のうちに耳まで真っ赤に染め上げて友人に文句を言っている。俺の顔などちらりとも見ようとしないが、それほど恥ずかしいことなのだろうか。

 祝いの言葉など、すっかり頭から抜け落ちていた。
 そもそも告げる気さえ失っていたのかもしれないが。

 昔から俺は、少しでも気になることがあると深く考えすぎる性質(たち)であり、案の定今回の、友人の言葉とそれに対する彼女の反応との意味するところを延々と考え込んでしまった。
 もしかすると、彼女には好きな人か、あるいは恋人ができたのかも知れない。いや、あの様子ではこの後者の可能性が最も高いだろう。
 彼女に気があればここで複雑な思いでも抱くのだろうが、生憎俺にとって彼女は只の友達でしかない。
 そんな彼女とも年明けの席替えでは席が離れてしまい、話す機会も極端に減った。実際、これまで幾度となく行われてきた席替えでは、常に隣同士になっていたということの方が不思議なのだが。
 彼女の席の位置に気が付いた友人たちは皆一様に、残念だな、と言っってきた。勘違いしているようだが、俺と彼女の間には空気と友人関係のほかには何もないのだが。
 それとも、俺が彼女に妙な気があるとでも思っているのであろうか。



四.
 そうして数日が過ぎたある日、またしても昼休みのことである。
 五時限目の現国の教科書を忘れてきた俺は、昼休みの間に各クラスの友人を訪ね回った。ようやく教科書を借りることが出来、教室へ戻ろうとする。と、予鈴が鳴り始めたとき、教室とは逆方向へ向かう彼女とすれ違った。
 俺のことなど気付きもしない様子で、傍らに立つ自分より背の高い人物を見上げる姿勢で、何か話している。対する俺は、声をかけようとはしたが、未だに何の言葉も発せられない口を半開きにしたままで、少しずつ無意識のうちに歩を緩め始める。
 耳の中では、なかなか鳴り止まない予鈴の音がやけに五月蝿く響いており、彼女の声も傍らの人物の声も、足音さえ聞こえない。
 視覚のみから得た情報は、彼女の笑顔が雪の中に一輪咲き誇る向日葵のように眩しく暖かく煌いていることと、その笑顔を向けている相手のネクタイはラインが二本―――一つ年上の男子であるということだった。
 俺は一拍置いてから理解した。彼が、彼女のそれ(・・)なのだと。
 そうと解りながら敢えて声を掛けることが出来るだけの勇気など、俺は持ち合わせていなかった。
 やがて立ち止まった俺は、これも特に意識しないまま振り返って、彼女とその隣を歩く彼とを見詰めた。
 必死に、睨むような目つきで。

 見せ付けられた気がした。傷など知らなかった自分の心に、深く刻み込まれた気がした。
 常に笑顔を絶やさない彼女の最上級に幸せな笑顔は、既にあいつだけのものなのだ、と。
 弁解すると、先にも述べたとおり俺は彼女に変な気があるわけではなく、当然そのような笑顔を見たいなどとはこれまで一度も思ったことがない。
 このことは確かに事実であるが、彼に対して嫉妬に似た感情を抱いたということもまた事実であると俺は認めざるを得ない。
 潔く認めてやろうではないか。非常に不本意ではあるが。

 ただこのひと時の間、俺は彼女を好いていた。


 チャイムの余韻が、耳を通して頭の中でいつまでも響いていた。
 自分の教室に戻らんと急ぐ生徒たちが、俺の横を足早に抜けてゆく。彼女は丁度彼と別れ、こちらに踵を返すところだった。
 呆然と立ち尽くす俺に気付いた彼女が手を振った。
 すれ違いざま、こんな所につっ立ってどうしたの、と最もな疑問を投げかけられる。
 その声で我に帰った俺は、何でもない、と首を振り、彼女の後を追うようにして歩き出した。



五.
 そこまでで書くのをやめてしまった去年の日記帳を、俺は一週間ほど前に読み返した。そうして今、寒々しい壁にもたれ掛かって思い出し笑いをしている。
 これはたったひと時の想いだ。一時の気の迷いなのだと、あの時必死に言い聞かせていた自分を今思い出すと、可笑しくてならない。

 遅いな、と手首の時計に目を落とす。
 時刻は最終下校の僅か五分前だった。さっきから校内放送が『早く帰れ』と喚いている。こんな日くらいゆっくり待たせてくれと愚痴りつつも、流石にそろそろ施錠されてしまいそうなので靴を履き替えて校舎外に出た。
 いくらなんでもここまで帰りが遅くなることはありえないから、彼女とはきっとどこかで行き違いになったんだろう。流石に放って帰ってしまっただろうな。
 残念だが仕方ない。晩(おそ)くまで頑張っていた運動部員たちの別れの声が飛び交う中、俺は独りとぼとぼ歩いた。

「あッ」
 校門を出たところで、耳に慣れたよく通る声がした。
「・・・ん、砂川?」
 不意打ちだ。
「遅いっ」
 寝ぼけた声で咄嗟に呼ぶと、砂川はちょっと笑いながらデコピンを喰らわせてきた。地味に痛い。
「あのな、俺はずっと待っ―――」
「はい、言い訳は用件が済んでから聞きます」
(コイツ・・・)
 それから彼女は寒そうに握っていた手を手提げの中に突っ込み、すぐに何かを取り出した。それが何なのか分かっていながら、いやだからこそ、俺はごくりと唾をのむ。

「どうぞ。義理だけどね」
 背中まで伸びた黒く長い髪を二つに纏めた彼女は、真夏の向日葵に劣らないほど暖かく眩しい笑顔でそれを差し出した。
 二月十四日のことだ。

「あー・・・義理、ね」
「えーなに、勘違いしてたの? それとも今日返事してもらえるかもとか思ってた?」
 安直だね、と目を細める彼女。はいそうですね、安直すぎますね図星です。
「ん、何だコレ・・・手紙?」
 それの入った袋の中に、パステル調の可愛い便箋が入っている。一週間前俺はある想いを彼女に告げたのだが、もしやその返事がこの手紙の中に―――
「えーと、開けてみていいよ」
 俺は素直に便箋の封を切った。
「・・・・・・メアドだけ?」
「最近の告白はメールが主流なんだよ」
 バッグと手提げを籠の中に置き、傍らに停めていた自転車のスタンドをとんと蹴る。
「ゆっきぃみたいに直接言ってくる人は知らないだろうけど。じゃ!」
 言うだけ言って、彼女はひょいと自転車にまたがった。
「ぃや、そもそもつい今まで砂川のアドレスなんて知らなかったんだけど」
 駅までは徒歩の俺は、颯爽と走り去った彼女を追いかける気も起きなかった。
 とりあえず、帰ったらこのアドレスにメールしてみよう。
 それから新しく日記を書こう。

 きっと今日からまた、俺の想いは変わってゆくだろうから。



JACKPOT55号掲載
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