ちいさな優しさ
 
千里たつき

 朝のラッシュ時の満員電車に、白髪まじりのお爺さんが乗り込んだとき、私はその近くの席に座っていた。
 でも、私は譲らなかった。その人も年寄り扱いされるのを嫌いそうに見えたから。
 隣のクラスの知り合いが体操服を忘れて困っていたとき、私は使わないそれを持っていた。
 でも、私は貸さなかった。その子も他の仲が良い子に借りたいだろうと思ったから。

 こんなもの、全部ただの言い訳だ。
 私は全然、優しくない―――。




 我ながら酷い奴だと思う。
 こうした方が良いと分かってはいても、どうもいざというとき行動に移せない。それはきっと、私が優しくないせいだ。
 私、篠原(しのはら)ゆかりが心の中でそう呟いたとき、ガラリと教室の引き戸が開いた。そのやけに響く音にビックリして、右肘を突いて支えていた顔がびくっと浮いてしまった。
 入ってきたのは見慣れない顔の、言っては悪いがかなり背が小さい女子だ。
(そういや先生…転入生が来るとか言ってたっけ)
 担任が適当に置いた左隣の空席を、きっとここに座らせるんだろうな、と見やりつつ、私は今更ながらに担任の言葉を思い出していた。
『明日、転入生が来ます。何年か前までこの辺りに住んでたらしいから、顔見知りの子も多いと思うわ』
 楽しみにしてなさい、と言っていた担任の女教師が、その転入生に続いて入ってきた。
 楽しみにするどころか、こっちはすっかり忘れていたが、とりあえずは転入生の顔を確認してみる。顔見知りというか、見覚えはあった。
(いつだっけ、えーっと……あ)
 黒板に書かれた名前で、私ははっとした。
 転入生が小さな口を開く。
「えっと、永村(ながむら)千尋(ちひろ)です。よろしくお願いします」
 話し方の拙さに対して、声ははっきりとよく通った。
「やっぱり、ちぃちゃんだ…」
 私は無意識にそう呟いていた。
 背の小さな、永村千尋と言うその女子は、私の五年前の友達だった。


 やはり先生は千尋に、私の左隣の席をあてがった。与えられた席にすとんと腰を降ろした千尋に、私は小声で話しかけた。
「ねぇ、永村さんって5年くらい前に―――」
「あ、ゆかりちゃんだ!」
 訊き終わらないうちに確認できてしまった。
「千尋だよ、覚えてるよねっ」
「ぅ、ウン……」
 嬉しそうに訊いてくる千尋に、私は苦笑に近い笑みを浮かべて頷いた。
 そう、こんな子だった。ぶっちゃけ五年も前のことなんて大して覚えてはいないが、この小ささと元気な話し方だけは印象に残っている。
「じゃあ色々よろしくね、ゆかりちゃん!」
「あー、うん。こっちこそよろしく」
 これから五月蝿(うるさ)く…いや、賑やかになりそうだなぁ、と思った。


 一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴っている。皆はさっさとノートや教科書をしまっているのに、千尋だけはずっと懸命に細いシャーペンを動かしていた。彼女の机上のノートを見ると、まだ板書を写しきれていないのだと分かる。
 いつの間にかチャイムが鳴り終わり、真面目な日直が黒板消しを手にした。それを見た千尋が、まだ写していないところが消されてしまうと慌てる。視線がノートと黒板を何度も素早く往復し、顔が何度も上下しても手は止まらずに動いていて、その様子はかなり必死に見えた。
「ちょっと、それは…」
 私が書いたのを見せるから、そんなに慌てなくても良いんだよ。
 さすがに見かねてそう言おうとしたが、すぐに転入生に興味を持ったらしい女子たちが集団でやって来たので、まぁいいか、と口をつぐんだ。あの子たちが見せてあげるだろうし、と。
 早速集団の一人が尋ねる。
「ねー永村さん、前はどんなトコに住んでたのー?」
 妙に間延びした話し方だ。
(あーあ、あんなに大勢で……)
 私が鬱陶しがっても意味が無い。千尋はどうするんだろう、と会話に耳を傾けながら、賢く次の時間の用意をする。
「地名も知られてないような田舎だよ。学校なんか、二学年に一クラスだけだったの!」
 へぇー、と集団から反応がある。
(ふぅん、普通に相手するんだ…別にいいけど)
 そう思いながら席を立って、友達の元へ行こうとした。用意が終わると、いつまでも席に着いているのは不自然だったから。
 その時、
「あ、ちょっと待ってゆかりちゃん!」
「へ?」
 千尋の声に不意を突かれ、私は間抜けな声を上げて振り返る。
「筆箱開いてたみたいだよっ。ペンとかいっぱい落ちてる」
「あ、あぁ…ありがと」
 自分に呆れて苦笑いした。千尋の言ったとおり、机の上のペンケースは口を開けたまま横倒しになっていて、足元にはそれに入れていたペン類が何本も転がっている。
 仕方なくしゃがんでそれらを拾っていると、千尋の手がのびてきた。
「手伝うねっ」
 そう言って、私のペン類を拾い始めた。
(あの集団から、わざわざ抜けてきたんだ……?)
「ありがと。優しいね、永村さんは」
「そんなことないよ!」
 あるよ。私なんかよりずっと、優しい。
「ってなんで“永村さん”なの? 前はそんな風に呼んでたっけ……?」
 おかしいな、と言うように永村千尋が首を傾げた。
「え…だって中三にもなって“ちぃちゃん”はちょっと、どうかと思ったんだけど」
 ちぃちゃん、というあだ名は、確か彼女の背が小さいことに由来していたはずだ。五年も後になっても呼ばれては、さすがに良い気はしないだろうと思ったのだが。
「そんなの気にしなくて良いよー。千尋の背が小さいのは変わんないんだしねっ」
 顔にでも出ていたのだろうか、千尋―――ちぃちゃんはあっさりと私の考えに答えた。嬉しそうに笑っている。
「そんなこと気にしてくれるなんて、ゆかりちゃんこそ優しいんだね」
「……私は優しくなんかないよ」
 ちぃちゃんに返事する、というより、独り言を言うように呟いていた。

 優しくない。私はただ……優しいフリをしているだけだ。



「ゆかりちゃんっ、一緒に帰ろ!」
 放課後、いつも五、六キロは軽くあるんじゃないかと思うくらい重い通学カバンを背負って、一人でさっさと教室を出かけた時、呼び止めたのはやはりちぃちゃんだった。
 ちぃちゃんは優しいから、大方私が一人ぼっちで帰るのに気を遣ってくれたんだろう。これでも友達は多いほうだが、放課後は皆何らかの部活に出ている。私はというと、見ての通り帰宅部。どこに入ろうか迷っているうちに、気付いたら三年になっていて入部を諦めたのだ。
「ゆかりちゃん?」
「あ、ごめん。帰ろっか、ちぃちゃん」
 そう呼ぶと、彼女はとても嬉しそうに笑った。


「今日、ゆかりちゃんとまた会えたのがちょっと嬉しくてね、昔のこと色々思い出してぼーっとしてたら、国語のノート写しそびれちゃったんだ」
 そう言って苦笑した。
 この子はこれほど喜んでいる。私みたいな奴との再会を。
 …っていうか、結局写せなかったんだ。
「あのね、だから今度写さしてくれる? ゆかりちゃんのノート」
「あ、うん。もちろん良いよ」
 良いに決まっている。元々そうするつもりだった。
 そんな風に言い訳しながら、ちぃちゃんが困っていた時も、そのことを話してくれた今も、自分から言うべきことを言い出せなかった自分を嘆かわしく思う。
「本当!? ありがと、助かる!」
「どう致しまして」
 社交辞令のように言って微笑みながら、ちぃちゃんの素直さが純粋に羨ましくなった。どうしてこんな風に笑えるんだろう。無理せず人に優しくできるんだろう。
 私のような、親友でもなくたまたま再会しただけの、五年も前の友達にさえ。
「いいなぁ、ちぃちゃんは…」
「え、何が?」
 いつの間にか、思ったことを口にしていたようだ。
「ううん、別に…ちょっと羨ましいなって思っただけだよ」
 こう言うと、相手を褒める言葉に繋げられそうだ。
 そんなことをわざわざ考えている自分にまた呆れた。できるだけ優しくできるように、いつも試行錯誤しているのだ。所詮は優しいフリなのに。
「ゆかりちゃん? …どうかしたの?」
 ちぃちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「あ、うん大丈夫…。何でもないよ」
 無駄に心配はさせたくなかった。
 それでもちぃちゃんは優しい。人の気持ちもよく分かるようで、この子に苦笑いの誤魔化しが通用するはずがなかった。
「ほんと? 何か困ったことがあるなら言ってね、千尋だってノート見せてもらう借りがあるんだから」
 ね、と言って微笑むちぃちゃんに、少しほっとした。
「うん。…ありがと」
 だからそう言って、久しぶりに心から微笑(わら)えた。



 その翌朝、誰もいない教室に一番乗りした。昨日、ちぃちゃんと別れる前に頼んだのは、ノートを見せるついでに話したいことがあるから、普段より二十分ほど早く教室で会うことだった。
「はい、これ」
 後から来たちぃちゃんにノートを見せる。
「ありがと! すぐ写すねっ」
 ちぃちゃんはまた、小さい手に握った細いシャーペンを一生懸命に動かし始めた。
 そんな姿を真正面に突っ立って見つめながら、私は意を決して口を開いた。
「…ねぇちぃちゃん、私どうしたら、ちぃちゃんみたいに優しくなれるかな……?」


 ちぃちゃんは驚いたようだったが、すぐに詳しい話を聞きたがった。ノートを写すのもそっちのけで。
 意外にも、すぐに答えが返ってきた。私の場合、どうやらこの子に相談するのが最善の策だったようだ。そのことに気付くのに丸一日かかるとは、自分のことなのに鈍い奴だ。

 ちぃちゃんが出してくれた結論は、こうだ。
「でも千尋は、ゆかりちゃんって充分優しいと思うよ?」
「え、…なんで?」
 それは自分で否定したはず、と首を傾げると、ちぃちゃんは違う違うと首を振った。
「だってゆかりちゃんがすぐ優しいこと出来ないのは、ちゃんと理由があるんだし、相手のことを思ってるんだもん。年寄り扱いを嫌いそうとか、仲良しの人から借りたそうとか」
「でもそれは、所詮言い訳だよ。優しく出来ないのに、人のことを思ってるからって理由にならないし……」
 それにもちぃちゃんは首を振った。それから私と視線を合わせて、微笑む。
「でも本当に優しくない人は、きっと人に優しくしようなんて思いもしないでしょ?」
「それは…」
 ―――それは確かに、
「そうだけど……」
「でしょ? ゆかりちゃんは優しくなりたいって思ってるじゃん。今の自分じゃ駄目だって思ってるもん。だからゆかりちゃんは優しい人だし、きっとこれからちょっとずつでも誰かに優しく出来ると思うよ。良いと思ったこと、勇気出してやったらね」
 ちぃちゃんはそう言ってくれた。あとは私がどうするかに懸かっているということなのかも知れない。
「……分かった。そうだね、うん」
 自分の考えを確認するように頷いた。
 随分と軽くなった気がする。何がって、訊かれてもよく分からないけれど色々と。
ちぃちゃんは付け足すように続けた。
「あとね、千尋の呼び方のことだって、ゆかりちゃんはちゃんと千尋のこと考えてくれてたよねっ。あれ、すごく嬉しかったんだ。前みたいにちぃちゃんって呼んでもらうのが一番嬉しかったけど、自分のこと思ってもらえるだけでもすごく嬉しいの。きっと皆そうだよ」
 そう言われれば、ああいうちょっとしたことなら優しく出来るようになったかも知れない。そしてそれも多分、この優しい子の影響(おかげ)だ。
「ちぃちゃん、本当にありがとう」
「えへへ、どう致しまして」
 お礼を言うと、ちぃちゃんは少し照れたように笑った。



 これからは、ちょっとずつ人に優しくなれそう。
 何となくだけど、そんな気がしてきた。


「あ、おはようゆかり」
「おはよ、美希。……あれ、ちぃちゃんは?」
 ある朝始業直前の教室を見渡すと、ちぃちゃんの姿が見当たらなかった。
「さぁ…この時間に永村ちゃんが来てないのって珍しいね。休みかも」
 そっか、とだけ言って、その話は終わった。
 でもその後、HRで担任の先生から告げられたのは、突然すぎる事実だった。



 あの日から一週間後、ちぃちゃんこと永村千尋はまた転校していった。
 それは何の前触れもなく突然のことで、実際ちぃちゃんと一緒にいられたのはほんの短い間だったが、私たちはその間、他の友達とも一緒にカラオケへ行ったり家で遊んだりして、とても充実した日々を送った気がする。
 突然いなくなってしまったちぃちゃんが、目に見える形で残した物は、二人で撮ったプリクラだけだ。
 その中で私とちぃちゃんは、これ以上ないくらいに思いきり笑っていた。思い出の形としては、これで充分だ。
 他にも、目には見えないけれど貰ったものがあるし。

「……バイバイ、ちぃちゃん」
 担任が朝の連絡事項を説明しているが、まったく耳に入れていない私はちぃちゃんの机を見やって呟いた。



 私、これからは多分もっと優しくなれるよ。
 せっかくちぃちゃんが言ってくれたこと、無駄にしたくはないからね。



JACKPOT52号掲載
背景画像:フランクなソザイ


閉じる