箕北 悟史

※警告※この文章は自分の勝手な妄想と誇張表現を含んでいます。読む人はマシュマロのような柔らかい心と頭をお持ちいただきますようお願いします。

中学校の体育の適当さをいつまで覚えていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまで中学の体育などという都市伝説を信じていくかと言うとこれは確信を持って言えるが最後の最後まで信じていくような気がする。
どこぞの私立進学校の行かせるような大学に進学できやしないと理解していたし、どっかの理数科の進学実績を超える記録を目撃したわけでもないのに、この学校ならやれるに違いないと確信していた賢しい俺なのだが、はてさて、この学校がどうやら文武両道というよりは武武直進であると気付いたのは相当後になってからだった。
いや、本当は気付いていたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底からこの学校が、素晴らしい高校生ライフの成功を達成してくれることを望んでいたのだ。
 しかし、現実ってのは意外と厳しい〜。宿題の量が意外に多く出されることに苦心しつつ、いつしかどっかの私立高校の動向をそう熱心に見なくなっていた。京大現役合格日本一? 東大合格二十名突破? 目指せ関西一の進学校? それはすごい。でも、生野は生野みたいな、最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
 文化祭を迎える頃には俺はもうそんな関係のない夢を見ることからも卒業して、授業中の睡眠学習にも慣れていた。俺は人生からドロップアウトすることもなく、――体育の授業と出会っていた。※この部分は「涼宮ハルヒの憂鬱」をインスパイヤしたものです。

有り難いことに、後期から体育の授業が二週間に四回から五回になった。きっと「涼宮ハルヒの憂鬱」の古泉(こいずみ)なら、警報で学校が休みになったことを知ったときのような顔でニヤつきながら
「斬新な時間割ですね」
とほざいているに違いない。
この時間割は、「涼宮ハルヒの憂鬱」が、文芸部員がどこかで頭をぶつけてジャックポットが百ページに及ぶBL(ボーイズラブ)特集になってしまうことの次にあってはならないことであり、当文芸部員である夕(ゆう)仁(じん)暁(あかつき)が、「ハルヒ」の長門(ながと)の女装コスプレをしてハレ晴レユカイを超音波で爆唱しながら登校してくることよりあってはならないものである。また同時に、このような時間割の作成を犯してしまった日本は国連の安保(あんぽ)理(り)に入れないことが確定してしまったのと同じだ。俺は思ったね。何で核実験した北朝鮮に制裁を加えて、この時間割に制裁を加えないんだ、と。
 こんなエキサイティングな時間割に、鬱病に陥ってしまった俺は、すなわち、全米が震撼するほど運動神経が鈍い。運動神経といっても、意識的な運動をつかさどる末梢神経のことではない。もちろん、直立二足歩行ならできる。俺はアウストラトピテクスよりは進化しているからな。だが、走行となると話は別だ。
 生野高校の体育ではこれまた、素晴らしいことに毎回ニキロ運動場を走らされる。無論カリキュラム表を見ても「持久走」とは書かれていない。これは通常パソコンを買ってきたらWindowsが最初から入っているようにデフォルト仕様なのである。しかも各自でというわけではなく、某将軍様のお国のように、みんなで仲良く走らなければならないということになっている。しかし、八百メガバイトしか入らない古いHDDに、YouTubeで落としたハルヒとシャナとゼロ魔とひぐらしの動画を全てローカルに保存した上、三十二キロバイトしかないメモリでハイクオリティなゲームをしながら音楽を聴いたりするのは不可能であるのと同じように、俺の体力スペックは一キロで限界である。それ以上となれば、自分のペースに落とすほかない。すなわち某将軍様のお考えに背くことになる。しかし、あえてここで言いたいのだが、それでも俺は一生懸命なのだ。彦麻呂が居れば「三途の川への急行列車や〜」とでも言わざるを得ない。それでも走り続けるとなればこれはもはやSMシュミでもあるとしか言えないような気さえする。どうせSMをするのなら、ルイズに犬扱いされたほうが、太陽とベテルギウスの大きさくらいの違いがある。

 さらに男子には柔道というプログラムもつく。俺がノートン先生なら、間違いなく脅威として検出するね。マルウェアもいいところだ。ちなみにその脅威の活動内容は、次の通りである。
バービースクワット二十回。感動です。
腕立て伏せ七十回。感動です。
スクワット八十回。感動です。
首上げ二百回。感動です。
背筋二百回。感動です。
腹筋七十回。感動です。
倒立歩行。感動です。
受け身各種。感動です。
脇締め匍匐(ほふく)前進。感動です。
なんということでしょう。匠は七十分という時間を有効に活用し、ここまで人を追い込むことに成功したのです。
しかしこうやって原稿を書けていると言うことは紛れもなく、自分が生きていることを証明するものであり、アイデンティティの再確認をすることでもあるのだ。ありがたいことである。
 ちなみに体育の次の日は、寝たきりになる。というのはいささか未満に嘘ではあるが、しかし、立つことができなかったというのなら本当にある。腹筋やら太ももやらが痛くて、本気で立てなかった。ひたすらに痛い休日だった。俺の休日、利子つけて返せ。

しかしおかげさまでガチで体力がついた。これは本当である。筋肉痛も死には至らない程度でおさまっているようだし。もっとも、筋肉痛で死ぬ人がいればお会いしたいところではあるが。人間無理矢理でも何かをやらされれば、上達することを改めて認識した。生野高校では睡眠学習がもっともポピュラーな授業形態の一つになっているようだが、そのような人を夢の世界から連れ戻せば、どっかの公立高校に完全に一位の座を譲っている生野高校が、少しは太刀打ちできそうな気がしないもないでが、やはり途中で起こされるのはご免である。いや、でもやっぱり起こさないと授業についていけなくなるような気がしないでもないが、できれば電車で寝過ごしている人(終着駅で起きない人)くらいは起こしてあげて欲しいなと思う。

まあしかし体育の先生は悪い先生ではないなあ、とも薄々思っている。どことなく憎めない感があるからで、これは俺にマゾっ気があるわけではない。まさしく「なんとなく」そう感じるからである。とはいえ、体育の前の日の晩からテンションは氷河期の時の海面より下がるが。逆に終わったときは懲役十五年の刑を終えたような、素晴らしい開放感に包まれる。感動です。
そんな躁鬱病(そううつびょう)気味の俺と体育の戦いと、部室での夕仁暁と涼(すず)露(ろ)の戦いはまだまだ終わらない。

作者コメント

生野高校の体育があまりにもひどかったので思い立って書いた作品です。
んな、大げさな。と思うかもしれませんが、これ全て実話です。
(掲載号:JACKPOT49号 使用書体:平成明朝体W7 使用素材:自由に使える背景用写真素材