箕北 悟史

耳に響く蝉のけたたましい声。沸き立つ入道雲。青々とした稲の絨毯(じゅうたん)が風になびく。夏の午後の陽光は、その強烈さを増していく。
 舗装された道とされていない部分が入り交じるこの道にトラックがやってきた。ガタガタと音を立てながら、荒ら屋の前に止まった。
 この村に人が引っ越してきたのだ。先に言っておくが、この村にはオヤシロサマの祟りもなければ、殺人も起きない平和な村である。
 コンビニまで徒歩二十五分。そのコンビニができたときには長蛇の列ができた。でも実際そのコンビニは十時で閉まる。最寄りの信号は徒歩十分。ちなみにその信号ができたときはテープカットをした。最寄りの駅へはバスで十五分。バス停までは徒歩七分と比較的近いところにあるが、バスは朝二本、昼一本、夕方二本の一日五本で、電車はラッシュ時に一時間に二本、データイムは隔時一本。もちろん駅員もいなければ、自動改札もない。集落の村内放送では地元の小学生の修学旅行の安否を告げる放送が流れる。ちょっと街に出れば「ジャスコ25km先」の看板。半年前にADSLがついに開通。畑仕事の婆さんがその辺の溝でおしっこするような、そんなド田舎であった。ちなみに近所の山は原生林で、未だに恐竜が歩いているらしい。村長にアヒルが就任している可能性がある。


 そんな田舎に引っ越してきた、一人の男性。松田(まつだ)弘幸(ひろゆき)、四十四歳。東京でうだつの上がらないサラリーマンをしていたが、ついに脱サラをし、念願の田舎暮らしの自給自足生活を始めたのだ。なんか銭(ぜに)金(きん)みたいである。婚期を逃し、今も昔もフリーである。
「やはり田舎は暑いとはいえ、都会とは違うな」
誰も聞く人のいない独り言をぼやきながら、荷物を整理していく。


 六畳一間、八畳三間の平屋。築数十年になるだろうその家はかなりの期間放置されていたようで、予想を上回るほどの荒れようだった。勿論だからこそこんな格安でこの土地と家を買い取ることができたのだ。ちなみに畑と田の土地もある。もっとも今はほとんど荒れ地というような状態で、使い物にはならないが。そして庭には大きな桜の木が立っていた。
 ひとまず部屋の中をぐるっと回ってみる松田。広い。東京では六畳一間の格安アパート住まいだった。大違いである。とにかくどこから手をつけていいか分からなかった。畳は変色し、壁には穴が開き、戸は名ばかり、家の中に砂が上がっていてザラザラする。ひとまず一番荒れていない部屋を選んで、その日はそこで寝た。
 午前二時。目を覚ました。静かだ。東京では夜中も車の通る音やネオンで悩まされる。ふいに誰かが居るような気がした。気を集中させると何か足音が聞こえる。子供が走り回っているような足音だ。まさか曰わく付きの家を選んでしまったのかと思ったが、まあ鼠でも走り回って居るんだろうと無理矢理思いこんで、とりあえずそのまま寝た。


 翌日、よく晴れた朝。自家用車に乗って、街まで買い物に行って、必要な物資をそろえた。家に帰ると、
 子供がいた。
 どこのガキだ、と思ったが、よく見るとその子は和服を着ていた。明治の子というような風貌だ。松田が話しかける前より先に、子供が口を開いた。
「ねえ、おっちゃん、ここに引っ越してきたの?」
「そうだ。で、坊主、お前は一体どこの誰なんだ?」
「ボクは、あの桜の木の精。何百年も前からここに居るんだよ」
「ほう、木の精……」
半信半疑の目で、そう名乗る少年の体をじっくり見た。まあ、こんなタチの悪い冗談を言っても誰も得しないだろうし、このご時世に和服というのも納得できる。松田は信じることにした。
 

今日買ってきた物を家の中に運び込む。その様子をじぃっと子供は眺めていた。
「おっちゃん、ボク手伝おうか?」
思わぬ申し出に一瞬たじろいだ松田だったが、せっかくの申し出を断る理由はない。ああ、頼むよ、と松田は応え、二人は一緒に作業をした。壁の汚れをとったり、壁を塗り直したり、畳を張り替えたりと、作業は一週間も続いた。
「そういえばお前の名前はなんなんだ?」
「名前? ないよ、そんなの」
「そうか。でもそれじゃあちょっと呼びにくいな」
「じゃあ、おっちゃんがつけてよ」
「えっ、俺が? じゃあ……さくらでどうかな?」
女の子みたいな名前だと思った。でも、この子は女の子みたいな顔立ちをしている。可愛い。さくらいう名前でも違和感がないなと思ったのだった。
「うん、いいよ! ボク桜の精だしね」
本当に桜の精なんだろうか。でも、松田にとってはそれはどうでもいいことのように思えた。結婚とは縁遠いと思ってた自分になんだか子供ができたような気分だったのだ。
 

なんとか人が住む環境といえる状況にはなった。お世辞にも綺麗な家だとは言えないが。
「ちょっと休憩しようか」
「うん」
松田は麦茶を縁側まで持ってきて、二人で一緒に腰掛けて休憩した。縁側から桜の木が見える。
「ボクはここに四十年前から居るんだよ。だからこの家のほうが古いね」
「ってことは君は四十歳?」
「うん。そういうことになるね」
「でも木の年齢とボクの年齢は関係ないよ。ボクは生まれたときからこのままなんだ」
そう言いながら、冷えた麦茶を飲んだ。そういうものなのかと思う。
 カナカナカナカナ
夕方になり、ひぐらしが鳴き始めた。昨日取り付けた風鈴が風に撫でられ、透明な音を奏でる。夕方になればもう涼しい。
晩ご飯の支度をする。
「さくら、お前も食べる?」
「うん、食べるー!」
いずれ松田は畑を耕し、自給自足で食べ物も作るのが夢であるが、今日の所はスーパーで買ってきた物でなんとか適当にこしらえた。そのスーパーもここから片道一時間近くあるところだが。
 晩ご飯が終わってからは自分の木に戻っていく。どこで寝ているんだろうと思って探してみたがいなかった。そもそも姿を現すこと自体が稀らしい。普通は木の中に宿っているので普通の人間からは姿は見えない。なので、このように姿をいつもいつも現すことは特別らしい。


 夏には一緒に縁側に座ってすいかを食べた。秋になれば、荒れ放題だった畑を耕したりした。さくらは桜の木の枝に腰をかけ足をぶらぶらと揺らしながら楽しそうに松田を見守っていた。ときには手伝ったりもした。一緒に食べた月見団子、美味しかった。冬はとにかく寒かった。囲炉裏(いろり)に火をともした。こたつの中で見た紅白歌合戦。DJOZMAの暴挙に目を疑ったりもした。正月にはこたつの上に蜜柑。そしてお餅を一緒に食べた。さくらはまるで松田の子供のように懐いた。結婚とは縁遠い自分に子供ができたみたいだった。


冬が終わるとさくらは
「今年はおっちゃんに最高の桜を見せるんだ!」
そう言って桜の木に駆け上った。それから松田の前に顔を見せる時間も心なしか短くなった気がする。
 その一ヶ月後。
――非常に発達した低気圧が北上中――気象庁では繰り返し注意を呼びかけている――
テレビでは今夜近づいてくる低気圧の報道をしていた。台風の波の勢力を持っているようで、まだ低気圧はそんなに近くないというのに風が強く雨足も強まってきた。松田は縁側の窓を少し開けて不安げに桜の木を見上げた。まだ夕方だというのに外はかなり暗い。強風が吹き荒れていた。あまりに強かったので雨戸を閉めてしまった。


 夜になっていっそう風は強まる。雨と風が雨戸を叩く音でなかなか寝付けなかった。ようやくまどろみかけたその時。
 閃光(せんこう)。続いて鋭い音、あり得ない轟音(ごうおん)。それからすぐに地響き。……そして訪れた静寂。――そして雨が雨戸を叩く音。
 嫌な予感がした。果たしてその予感は的中した。雷は桜の木を直撃。先端部分が焦げていた。松田は裸足で庭に駆け下り桜の木に向かった。よく見ると幹に亀裂が入っている。
「おい、大丈夫か! さくら!」
雨でずぶ濡れになるのも全く気にせずに松田は桜に話しかけ続けた。帰ってくるのは枝を通り抜ける暴風の音と降りしきる雨の音のみ。さくらは死んでしまったのだろうか? 今までの思い出が走馬燈のように松田を駆けめぐった。松田は一晩桜の木の前で立ちつくした。


 結局朝が明けてもさくらが現れることはなく、松田は風邪を引いてしまっただけだった。
「さくらぁ……どこへ行ってしまったんだよぉ」
さくらのいない食卓がこうも空虚だとは思わなかった。ひとり薄暗い部屋でひとりもさもさと飯を口に運ぶものののどが通らない。
 さくらが現れないまま一週間、二週間……そして一ヶ月の時間が過ぎた。
 冷たい冬が終わり、春が訪れた。鶯の鳴く声がした。
「そうか……もうその季節なのか」
ふと縁側から見上げると、

桜の木に満開の花が咲いていた。

「さくらは……生きていた」
下から桜の木を見上げる。花びらがはらはらと散っていく。本当に儚い命だ。この短い間のためだけにこの桜は花を咲かせようと賢明に頑張ってきたのだ。松田は幹に手を触れ桜の木をしばらく見上げた。
ふと決心したようにうなずくと、松田は畑仕事を始めた。その日は、さくらは現れなかった。しかしそれでも確かに松田は、さくらが生きていることを感じた。松田は賢明に咲き誇る桜から何かを感じたのかもしれない。今自分がすべきことは何かに気付いた。元々自給自足生活を目指し、この田舎に引っ越してきたのだ。

毎日畑に向かい畑に新しい種や苗を植え終わった頃だった。松田は信じられないものを見た。目の前の桜の木が倒れていったのだ。もし倒れるのがこちらだったら危うく下敷きにされていたことだろう。
「おい、さくら……」
今度こそダメだと思った。松田が倒れた木の幹を覗くと中はボロボロで一部空洞になっていた。実は雷が落ちたときに外めには分からなかったが中まで貫通してしまっていたのだ。
呆然と立ちつくす松田であった。やがて地に膝をつきうなだれた。

「ねえ、おっちゃん。おっちゃん」
聞き覚えのある声がした。そしてそれがすぐに桜の声であることも分かった。
「おっちゃん、僕そろそろ行かなきゃ……」
見るとさくらの姿は透けていた。桜の体越しに桃色の花びらが見える。
「さくら……お前……本当は無理してたんだな」
「最後におっちゃんにだけは満開の桜を見せたかったの! 今までで一番綺麗な桜を」
「ありがとう……」
 松田はさくらを抱きしめようとしたが、無理だった。さくらの姿はもはやどこにもなく、目の前には倒れた桜の幹と、別れを惜しむように舞う花びらがあるだけだった。


 それからしばらくして、松田は東京に戻った。それからの松田がどんな生活をしているのかは分からないが、またサラリーマンをやっているらしい。しかし、松田は知らない。倒れた幹にまた新しい命が芽吹いていることを。


夢はもう一度でっかく

作者コメント

たぶん、これが今まで書いてきた中で一番気に入っている作品です。
TAM music factoryさんの桜舞風という曲をイメージしながら書きました。タイトルもそのまま使用させていただいております。
2007年の文化祭では、文化祭号「NAMAMAN」でしいなくんに漫画化してもらった作品でもあります。
漫画ではよりいっそうさくらが可愛く描かれています!ぜひそちらもご覧ください。
なお、JACKPOTに掲載されたものより少し加筆されています。
(掲載号:JACKPOT51号 使用書体:DHF平成明朝体W7 使用素材:写真素材 キワモノ