とある数学教師と女生徒の日常

花笠 柚癒

「もー、勘弁してよ。明日から夏休みなのよ?」
「もー、じゃねえ。呼び出されるのが嫌なら勉強しろ、ボケ」
「……じゅんじゅんの鬼」
「誰がじゅんじゅんだ! まったくお前は年上に対する口の聞き方も──」
「……順、ここ一応図書室だから」
 やんわりと止めに入られる。何でお前がここにいるのか、とか、いい加減俺の名前をわざと間違えるのはやめろ、とはこの際あえて突っ込まないことにしておく。
「あー……悪い。おい、黒乃、いい加減呼び出しに参ってるのなら、まじめに勉強しろ」
「……やだ、つまんないもの。すぐ飽きるし」
「正直、それはここの生徒の大半が感じてるだろうな」
 この学校は名のある進学校であり、授業の進度も難易度も、そこらの学校とはわけが違う。授業をする身としても大変だ。
「じゃあ、いいじゃない。やめましょう、勉強。じゅんじゅんは今日から解雇(クビ)ってことで」
「ところが、そうもいかないんだな。永久留年する覚悟があるのなら、別にかまわないが」
「私に格下の人間とともに過ごせと?」
「もともとやればできるだけの頭はあるんだろうが。何で、やろうとしないんだ?」
「何度も言わせないでよ。飽きるの」
「普通は飽きるなんて単語、出てこないぞ」
「なんだかのどが渇いたわ。フジー、コーヒー入れて頂戴」
「ごめん、俺この部屋の構造よくわかってないから、頼むなら順に頼んでくれ」
「じゃあ、じゅんじゅん」
「そんな目でこっちを見たところで、コーヒーが出てくると思うなよ」
 まったくこの問題児は、どこまで人使いが荒いのか。別に、これはわざわざ奴のために入れたのではなく、自分の分を入れるついでである。
「やっぱり、じゅんじゅんはやさしいのね」
 といって、奴は満足げに微笑み、カップを受け取る。
「誰が。ついでだついで」
「順、俺のも」
 忘れたころに、空気を読まずに追加注文が飛んできた。
「遅いんだよ、お前は!」


 俺がこの高校にきてから、早くも一年がたった。俺と同時にこの高校に移ってきた先生たちの中で、年が近かったこともあり、一番仲良くなったのが、英語担当である通称フジーこと富士先生である。ただし、こいつと過ごした日常の中にはあまりいい記憶がない。まず、こいつは今まで一度も俺の正しい名前を呼んだことがない。
「高山先生、今度から順って呼んでいい?」
「……順? 何でまた」
「いや、なんかすごくタメ口なのに、先生とか言ってたら変でしょ?」
「ていうか、俺の名前は『じゅん』じゃなくて『かず』なんだけど」
「いや、もう『じゅん』でよくない? 呼びやすいし」
 呼びやすいとか呼びにくいとかで名前を勝手に変えるな。後は、やたらと俺のことをちび扱いする。これには男として、大いに傷つかざるを得ない。別に俺がそんなに小さすぎるわけではない。ただ、ちょっとばかり標準身長よりも低いだけだ。背が高いからっていい気になるなよな。


 と、扱い方によっては非常にうっとうしくもなる頼れる同期と知り合ってしばらくのこと。俺の所属している第一学年に問題児がいるという話が出始めた。どうやら、入学当初はおとなしかったのが、学校生活への慣れからか急に本性を現し始めたらしい。そいつの名前は「黒乃つぐみ」。成績は推定学年トップ並み。推定、というのも、奴は一番最初の中間テストから、まじめにテスト勉強をやりはしなかったのである。生徒たちの話によると、教室ではテスト期間になっても、本を読んだりしゃべったり、いつもと変わらないのだという。そのくせ、どの教科も平均より少し上を安定してとっているため、赤点はないと聞いている。このことから、教師陣は「本気を出せば黒乃はすごい」という認識を持っているのだ。……が、俺の担当の数学。なぜか数学だけは、中間を除いた他の定期テストは、冒頭の基本を問う問題は白紙の癖に、入試問題に近いややこしい問題だけは解く(しかも満点)という、「お前は教師にけんかを売っているのか」と思わんばかりの有様なのである。もちろん、呼び出し。強制的に。そして、そのたびに俺と奴は、まさに冒頭のようなやり取りを繰り広げているのである。正直、それこそ飽きてきた、といったら怒られるだろうか。


「そんなに私に勉強をさせたいのなら、入試問題ばかりでできたテストを出しなさい。あれぐらいじゃなきゃ、面白くもなんともないわ」
「そんなので点が取れるのはお前だけだよ」
「さすがに、それは不公平だよ、つぐみちゃん」
「じゃあ、賭けをしましょう。私が勝ったら、これからも勉強はしません」
「賭博は法律で禁止されt」
「じゃあ、俺たちが勝ったら?」
「勉強でも何でもしてあげようじゃない」
「本当か?」
「私がうそをついたことがあったとでも?」
「ある。すっごくある」
「ま……まあ、信用するもしないもあなたたち次第だけど?」
「でも、賭けって言っても何をするつもりなのさ?」
「簡単なこと。鬼ごっこよ!」


 かくして、一方的にその場から脱兎のごとく逃げ去った黒乃を俺たちは分担して追うことになった。机に残されたメモによると、逃げる範囲は校舎内のみ。制限時間は下校時刻まで。たぶん、この鬼ごっこはもともと仕組まれていたものなのだろう。そうでなければ、瞬間でこんなルールなど決めれないだろう。
「しかし、制限時間はちょっと卑怯かもしれないよね」
 呼び出しは当然放課後。恒例のやり取りのため、時間は大量消費されている。多めに見積もっても、二十分はないだろう。
「あいつ……図ったな!?」
「うーん、困ったな。不利にもほどがあるじゃないか……」
「とりあえず、お前は西棟探してくれ! 俺は東棟を探す!」
「ん、了解。意気込みすぎて、転ぶなよー」
「な……俺はそんなに子供じゃない!」
 場所には心当たりがあった。何とはなしに裏返したメモの裏面に書いてあった言葉。
『最初 すべての始まり』
 黒乃のことだから、それが罠なのか、それとも素でメモしたままだったのかはわからないが。それでも、探す価値はあると思う。この労力で、黒乃がまじめに勉強するというのなら……!


 やってきたのは、外。東棟の端にある非常階段前。こんなところはめったに来ないから、道に迷って無駄に時間がかかってしまったが……。
「────いた」
 頂点近くに、黒乃の姿があった。一気に駆け上がる。到着と同時に下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。
「見つかっちゃったわね。どうしてわかったの、こんな辺鄙な場所?」
「メモの裏面」
「裏面……?」
 彼女は、何のことかわからないといった顔で首をかしげる。やがて、思い当たったらしく、ぽんと、手を打つ。
「ああ、あれね。しまった、うっかり消し忘れてたのね」
 悔しそうに舌打ちをする。
「さあ、これで約束どおり勉強を────」
「いやよ」
「……は?」
「だって、さっきチャイム鳴ったじゃない」
「さっきって……同時だろ!?」
「同時でも負けは負けよ。王様じゃんけんだって、あいこは負けになるわ」
「それはそのときのルールによるんじゃないのか!?」
 もはやめちゃくちゃである。とりあえずわかるのは、この俺の努力が水泡に帰しかねない状況であるといったところか。
「ルールは私よ、異論は認めないわ」
 そういうと、黒乃は軽やかに非常階段を下りていく。
「今日はもう帰るわ。下校時刻だしね」
「もう一回は覚悟しとけよ」
「何とでも言えばいいわ」
 疲れと、脱力と、理不尽さとその他もろもろがごちゃごちゃに混ざり合って、もう、どうにでもなればいいとあきらめの感情だけが残った。


 図書室に戻ると、一足先に富士が戻ってきていた。
「あー、見つけられなかったんだ、つぐみちゃん」
「いや、見つけた。けど、チャイムと同時だったから勉強しないって言われて……またあの繰り返しかと思うと俺はもう……」
「いや、そういう意味じゃなくて……まあいいや。いざとなったら胃薬なら用意しないこともないけど」
「ああ、いざとなったら頼む……」


 次の日、黒乃は平然と授業を受けていた。まるで昨日は何もなかったというように。授業だけはいつもまじめに受けてるんだよな……。ふと、目が合う。その目は、いつものとおり挑発的な光を宿していた。できるものなら、やってみなさいよ、と。
 この調子だと、まだまだ気苦労は耐えない……らしい。


=やっぱりよくわかんないよ(あとがき)=
 初めましての方は、初めまして。周知の方は、お久しぶりです。どうやら、その当時やりたかったネタを試運転したようですが、なんともいえないものに仕上がっています。できることなら、いっそ書き直してしまいたい衝動に駆られます(ぇ やはり、何事も計画的に余裕を持ってはじめないとだめですね……(´・ω・`)



2009年文化祭特別号『ワンダーランド293』掲載
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