透明な願い

蒼 珂燐


 太陽が空を半分くらい昇った頃、日の光を受けた海が静かに揺れた。
「そろそろ潮が引いてきたな…」
今まで海であった場所に、時間が経つにつれて地面が見えてきた。そしてそれはやがて完全な道となる。
「…よし、行くか」
 少年は島の丁度中央にある塔から降り、唯一島と大陸を繋ぐ道の方へと向かった。途中、人通りの多くなってきた道を上手く人を交わしながら進む。小さい島に建物をいくつも建てたせいで、道はとても狭い。
 島の入り口には観光客が数人来ていた。その人たちに少年は笑顔で話しかける。
「観光案内人のランスです。よければご案内しますよ」
観光客から案内の依頼を受けると、ランスは島の中で最初に建てられた塔、町の外れにある硝子工房、地元でも人気のある料理店等を紹介した。
そのあと彼は島の南にある岬へと案内した。彼は決まってここを最後に紹介する。
 潮騒と海猫の鳴き声のするその岬には、大きな鐘が一つ吊されている。ランスはその前に立った。
「ここにある鐘はあの塔と同じ頃に作られた物で、願い事をしながら鳴らすとその望みが叶うと言われています」
 ランスが説明をし終えると、周りで話を聞いていた女の子達は順番に鐘を鳴らし始めた。その楽しそうにはしゃぐ彼女たちの様子をランスは黙って見ていた。
 紐を引かれて揺れる度に鐘は光を反射して煌めき、澄んだ音が響き渡る。観光客が毎日のように来るためか、この鐘が鳴らなかった日はない。つまりはそれだけ願いがあるということ。
 …俺自身は鐘なんかに願いを託そうとは思わないけれど。

 観光案内を終えると、ランスは町外れの硝子工房へと足を向けた。薄暗くなってきた中に、灯りがぽつんと見える。
 中に入ると、まだ作業をしているのか熱気が作業場の方から流れてきていた。すると、不意に作業場の扉が開き、見慣れた顔が現れた。
「クロード、ただいま」
「ランス。帰ってきてたのか」
「いや、今帰ったばっかり」
 クロードは、この硝子工房で見習いとして働いている。そしてランスも硝子職人では無いが、ここに泊まらせて貰っている。
「今日もちゃんと此処のこと宣伝したか?」
「ああ、勿論」
 ランスは彼に笑って答える。ふと、作業場の窓が目に入った。窓からは岬とその上で瞬く星が見える。
 きっとあの鐘は明日も鳴るのだろう。

 ある日、ランスはいつものように島の入り口へ出かけていった。珍しく、そこにいたのは女の子一人だけだった。
「観光案内人のランスです。よければご案内しますよ」
 他の客にするように笑顔で女の子に話しかけると、少し焦った様子で彼女は答えた。
「あの、願いを叶える鐘の所まで案内していただけませんか」
 願いを叶える鐘、というのは誇張した表現だと思ったが、ランスは特に表情を変えず頷いた。
「わかりました」

その日は特に風が強かった。街の通りを歩いている間はあまり気にならなかったが、障害物のない岬へ出ると、海の方から巻き上がってくる潮風で、髪が首筋にまとわりつく。
「これが、願いを叶えると言われている鐘です」
 観光案内人として一通り鐘についての説明をすると、ナディアと名乗った少女は礼を述べ、鐘に一歩歩み寄った。
「…何を願うのですか」
 普段なら聞かないような問が口をついて出た。彼女を一直線に此処まで向かわせる程の願いが、どんなものか知りたかった。
「…弟がいるんです。その、弟の病気が早く治るようにと…」
 どこか落ち着かない様子はその所為だったのか、と理解した。残してきた弟が気がかりなのだろう。時折、大陸の方を見ているのにランスは気がついた。
「早く治るといいですね」
「…ありがとうございます」
 そして少女は鐘を鳴らすために紐へと手を伸ばす。その時にランスは異変を見つけた。鐘を吊し支えている部分が軋んで嫌な音を立てている。次の瞬間、その部分が壊れ鐘は真っ直ぐ下へと落ちてきた。
「危ない!」
 とっさにランスはナディアを引き寄せ、庇った。あと少しでも遅れていたらナディアに直撃していただろう、その鐘は今まで鳴らしたことのない低く鈍い音を残して地面に崩れ去った。
「大丈夫ですか?」
 庇った自分が何も怪我をしていないのだから大丈夫だとは思っていたが、一応確認を取った。
「ええ、庇っていただいたおかげで、怪我はありません。…ありがとうございました」
「それなら良かった。…長い間潮風にさらされて傷んでいたんだな…」
 この鐘は島が開発されたのと同じ頃に建てられた。だから相当な年月が経っているはずだ。その間ずっと潮風に吹かれ、点検など一度もしていないだろう。大きな事故にならなくて良かったとランスは感じた。
 しかしナディアの方はまだ動揺していて、指先が微かに震えていた。
「どうしよう…こんなことになるなんて。これって、弟の病気が治らないって事なのかしら…」
「そんなことないですよ」
 弱気になっているナディアに、ランスは出来るだけ優しい声を掛けて慰める。
「そこまで気に病む必要はありません」
鐘を鳴らしたからといって、願いが必ずしも叶うわけではないし、逆に鳴らせなかったからといって叶わないわけがないのに。
「ええ…けれど弟の望みでもあったんです。今日はそのために来たのに…」
 そんな風に本当に落胆した様子で彼女が言うから。
「…何日間滞在のご予定でしたか」
「え…明後日の朝にこの島を発つつもりですけど…」
 その言葉を聞くとランスは顔を上げ、不思議そうにしているナディアに向かって微笑んだ。
「では、明後日の朝にまたここへ来て下さい。渡したい物があります」

 クロードは自分の作業場で一人、硝子の置物を作る練習をしていた。今では細かい飾り付けも出来るようになってきていた。
 硝子が熱くなっているうちに、急いで形を整える。やがて硝子は冷えて固まり、透明になっていく。そのときの光に透かした硝子の色が、クロードは何よりも綺麗だと思っていた。
 完全に冷めるのを待つ間、次の作品を作るために準備を始めようとしたときだった。今まで聞いたことのない低く鈍い音が轟いた。クロードは近くの窓から外を覗いた。その先には岬が見える。
「一体、何だ…?」

 ナディアには明日ちゃんとした観光案内をすると告げ、ランスは出来るだけ急いで工房へと戻ってきた。
「相棒! 一生の頼みだ!」
クロードのいる部屋の扉を開けるなりランスは叫んだ。相棒は少々呆れたように彼を見ている。
「…ランス、それ何回目? 大事な懐中時計無くして一緒に探させたときも、行く所無いからここへ泊まらせてくれって頼んだときもそれ言ったよな」
「う…悪い。けど一生に一度の頼みとは言ってないぞ」
 ランスの反論にクロードは溜息だけを返した。
「で、頼みって何さ」
「あの岬の鐘が壊れたこと、知ってるか?」
「ああ、壊れたときの音がここまで聞こえてきたから知ってる」
 それなら話が早い、とランスは続けた。
「…その時に願い事をし損ねた人がいるんだ。だから、硝子で小さい鐘を作れないかな」
「…いつまでに?」
「明後日の朝」
「明後日の朝……まあ何とかなるかな」
「ちなみにその人にはもう渡すって言ってある」
「…先に俺に聞いてからにしろよ」
クロードはもう一度溜息をついた。けれど、怒っている様子はない。
「確かにあの人綺麗だったしな」
「…別にそういう理由じゃない。ただ、ここに来た人には笑顔で帰って欲しいだろ」
真面目に語るランスを見て、黙って頷いた。同じような気持ちは彼にもあった。
「分かった。その代わり報酬はちゃんとくれよ?」

 次の日、ランスが島の入り口で待っているとナディアが現れた。
「おはようございます。では、行きましょうか」
「はい」
 その後ランスは彼女にいつもの店や場所を紹介していった。普段の行程と違うのは、最後の場所だけ。彼女は、今日の観光には満足しているようだった。若干笑顔は固かったけれど。

 その夜。
「…クロード。できそうか?」
昨日とは違い、やや躊躇いがちに扉が開かれた。クロードは傍らにあった物を掴みランスの方へ近づくと、持っていた物を彼の手の中に落とした。
「ほら。…こんなんでいいか?」
 ランスが手を開くと、そこには掌くらいの大きさの透明な鐘があった。もう片方の手で持ち上げ、そっと揺らすと涼やかな音がした。
「ああ。期待していた通りになってるよ」
「それは良かった」
 満足した声を聞くと、クロードは嬉しそうに微笑んだ。
「そういえばあの鐘ってどうするんだろうな。元のように戻すにしても少し時間がかかるよな」
 ランスから透明な鐘を受け取ると、クロードは割れないよう厳重に包み、店の方から出してきた箱に収めた。
「…けど、あの鐘が壊れてランスは嬉しいんじゃないか?」
「何でだよ。あれが無くなったらきっと観光客は減る、つまりは俺の仕事も減るんだ。嬉しいわけがないだろ?」
「でもランスはあの鐘のこといつも嫌そうに見てた」
 予想していなかった言葉に、ランスは一瞬返答に詰まった。
「…よく見てんな」
「俺の作業場からは岬がよく見えるから」
 クロードから顔を背け、ランスは俯いた。石で出来た床だけが視界に入る。
「…別に、あの鐘が嫌なんじゃない。鐘に祈るって行為が嫌いなんだ。そんなことしても願いは叶わないのに」
 本当は、ナディアを慰めていた間も、ここに来るよりは弟の側にいた方が良いんじゃないかと思っていた。だからほんの少しだけ彼女にいらついている所もあった。
 それでも彼女のために何かしようと思ったのは、あんな悲しそうな顔で帰って欲しくなかったから。そして、何故そんなに物にすがるのか、知りたかったから。
 その事をクロードに話すと、「お前、深く考えすぎ」と笑って返された。

 ナディアがこの島を発つ日の朝。約束通り、彼女は岬にやってきた。岬から砕けた鐘はもう撤去されていて、細かい破片が散らばっているだけになっていた。
「渡したい物、というのはこれです」
 クロードから預かった箱を差し出し、彼女はそれを受け取った。
「どうぞ開けてみて下さい」
 ランスが促すとナディアは包みをそっと開いた。中から出てきたのは相棒の作った透明な鐘。鳴らせば、涼やかな音がする。
「綺麗…」
 そう呟く彼女は一昨日とは違い、嬉しそうな顔をしていた。その表情を見てランスは安堵した。
「…私、不安だったんです。弟が病気になって、でも私には大したことが出来なくて。その時にあの鐘の話を聞いたんです。それを鳴らせば少しは安心できるかと思ったので、ここへ来ました。けれど、あんなことが起きて…。だから、こんなに素敵な物を頂けて、本当に嬉しかったです」
 そしてランスの方へ向き、微笑んだ。
「ありがとうございます。あの、お礼に何か…」
「え…」
それは俺が勝手にしたことだ。だからこの人から何かを貰うのはどこか違う気がする。
「…それなら――」
鐘を作ってくれた相棒のこと、この人の弟のことが頭の中をゆっくりとよぎった。
「それなら、弟さんの病気が治ったら、一緒にまた観光しに来て下さい」
 今まで俺はあの鐘に祈る人を見るのが嫌だった。けれどそれで少しでも心が軽くなるのなら。努力するきっかけとなったり、努力だけでは補えない願いの心の支えとなるのなら。
 …確かに深く考えすぎていたのかもしれない。
 俺の願いは、皆が笑顔で暮らせること。

 彼女の指が静かに動き、硝子の鐘を揺らした。
 あの日鳴らせなかった鐘を、託すことの出来なかった願いを今。



背景画像:空に咲く花

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