パストラール

蒼珂燐

 雨が降り始めた。
 それも大粒の。風が強くなり、複葉機の翼が揺れる。ゴーグル越しに空の様子を確認すれば、黒い雲が天を包み、遠くの方では雷までも鳴っている。どこかに着陸した方が良さそうだ。
 着陸する場所を探してみるが、眼下に広がるのは森ばかり。その中に木々のない所を見つけ、操縦桿を傾けた。

 緑の地面が近づいてくる。傾いた機体を水平に直し、着陸態勢に入る。機体は草の上に跡をつけながら減速し、やがて止まった。
 飛行機から降りて辺りの様子を窺う。広い草原の中に三角屋根の建物がぽつんと建っている。そこから少し離れた所に平べったい小屋があった。
「牧場か…」
 呟いて、天を仰いだ。雨はまだ降り止みそうにない。それどころか、段々激しさを増してきた。風もさっきより強くなっている。
 まず人を探さなければ。頼んで雨が収まるまでここにいさせて貰おう。そう思い建物の方へと足を向けた。

 小屋の前に人がいるのに気がつき、足を止めた。牛舎の中へと牛を誘導しているようだ。茶色のお下げ髪を揺らしながら、小屋の扉を閉める。こちらには全く気付いていない。
「すみません」
 後ろから声をかけるとびっくりした顔をした。けれども怯えた様子はない。
「あら、珍しいわね。お客さん?」
「客というか……突然の雨で弱ってしまってね。雨が止むまで泊めていただけると非常に助かるんだが」
「お父さんに確認を取ってみるわ。大丈夫だと思うけど」
 彼女は後ろを向いて、扉に鍵を閉めながら答える。閉め終わると振り向き、ここで初めてちゃんと顔を合わせた。そう背は高くなく、健康そうに日に焼けている。しっかり者、という印象だ。
「そういえばまだ名前を言ってなかったわね。私はレベッカ。あなたは?」
「俺はアルバート」
「アルバートさんね」
「あと、飛行機を置いておける場所ってあるかな」
「ええ、こっちに持ってきて」
 彼女の誘導するままに俺はついて行った。


「父さん、お客さんよ」
 建物の玄関に案内された。レベッカの声を聞いて、彼女の父親らしき人が来る。体格の良い温厚そうな人だ。
「レベッカか。お客?」
「ええ。嵐にあって困ってるんですって。泊めてあげられるかしら?」
 彼は頷き、タオルを彼女と俺に渡した。ありがたく受け取る。
「それは構わないよ。それにしても随分濡れているな。とにかく部屋に上がりなさい。そっちの、ええと…」
「アルバート・クラウスです。すみません、お世話になります」
「私はカミーユ・グリーグだ。ゆっくりしていくといい」
 そして微笑んだ後、居間へと案内してくれた。こんな素性も知れない人物をそんなに簡単に泊めても良いのかと思ったが、こちらとしては都合が良いので黙っていた。
「ねえ、アルバートさんは普段はどんなことをしてるの?」
 廊下を歩きながらレベッカが無邪気に尋ねてくる。彼女はずっとこの牧場に住んでいるのだろうか。
「普段はあの飛行機に客を乗せて遊覧飛行をしているよ。今日は休みだったから一人でのんびり飛んでいたんだ。そうしていたら嵐にあってね」
「飛行機を操縦できるなんて凄いわ」
「そうかな。親がそんな仕事をしていたから、俺にとっては特別なことではないけど」
 居間へ着くと、カミーユさんが暖かいココアを出してくれた。濡れて冷えた体には嬉しかった。雨の降っている外を見ながら
 飲むココアは、なんだか懐かしい味がした。


 翌日、雨が上がったあと彼女は真っ先に牛舎の方へと向かった。
「大変! 屋根が壊れてるわ」
 恐らくは昨日の嵐で壊れたのだろう、屋根が一部剥がれて中の骨組みが見えていた。
「俺、直してこようか」
「いいの?」
「いいって。泊めてくれたお礼だよ」
「気をつけてね」
 梯子を借りて屋根へと上る。上に着くと、傾いた姿勢で屋根を打ち付けていった。
「なんでもできるのね、あなた」
 下から感心したような声が聞こえる。俺は少し苦笑して返した。
「そんなことないさ。どれも人に誇れる程の物じゃあない。…中途半端なんだよ」
 趣味で弾いていたチェロや、人知れず書きためた小説、本当は建築家にも憧れていた。その他にも色々なことに手を出しすぎて、身動きが取れなくなった時期がある。今でもそのままずるずると続けている物もあれば、やめてしまった物もある。全て、熟達したというには程遠い。

 どれも諦められなかったから、何一つ手に入れることができなかった。

 余計なことまで言ってしまったと、口に出してから気付いた。
 彼女は少し困ったような顔をしてぽつりと呟いた。
「…大変ね」
「悪い、変なこと言って」
「いいえ。屋根を直してくれてありがとう。この後は牧場の周辺を案内するわ」


 彼女に連れられて道路を挟んだ向かい側の土地へと向かう。牧場の反対側には防風林に囲まれて畑が並んでいた。
 その中の一つに、地面に何か茶色の固まりがいくつか転がっていた。草が丸まって、平べったい円柱の形になっている。
「…あれは?」
「ロールベールよ。牧草を丸めた物。冬に備えて蓄えておくの。あれをビニールで包んで発酵させたりもするわ」
「へえ…」
 それらを横目に見ながら道路に沿って更に進んだ。

「どう? 綺麗でしょ?」
 彼女は手を大きく広げて畑の方を指し示した。
 そこには一面の白。葉の深い緑に白い花がよく映える。丘の下の方までずっと、小さな花が風に吹かれて揺れている。
 彼女はその場にしゃがんで花弁を軽く指でつついた。
「何の花かわかる?」
「いや…」
 俺が首を振ると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「ジャガイモよ」
「へえ、こんな花だったのか」
 目の前に広がる白と緑の絨毯。隣は茶色、その隣は黄色。畑がこんなに美しいと思ったのは初めてだ。昨晩は暗くてよく分からなかったが、空から見たらきっと綺麗だ。
「飛行機に乗ったことはある?」
 まだ隣でしゃがんでいる少女に問いかける。彼女は黙って首を横に振った。
「じゃあ、乗ってみるか?」

「うわあ……!」
 色とりどりの畑の横に広がる、森の中に円弧状に空いた広場。その真ん中に建物がある。少女は初めて空から今まで自分たちがいた所を見下ろした。その姿はまるで――
「ミカヅキモ」
 言った途端、前の席から苦笑が漏れた。
「…もう少しいい例え方はないのか? 藻は余計だろう」
「だって、綺麗な緑色をしてるから」
 次の瞬間、風に煽られて機体が揺れた。
「きゃあ!」
「どうだい、乗り心地は?」
 笑いながら後ろに乗っているレベッカに尋ねる。予想したとおり、あまり良い返事は得られなかった。
「私には飛行機は乗るよりも、飛んでいるのを眺める方が向いてるわ」
「恐い?」
「…少しね」
 彼女はそう言った後、ぽつりと呟いた。
「でも、綺麗。こんな風になっていたのね」

 牧場へと戻り、飛行機から降りる。なだらかな斜面となっている草原に仰向けに寝ころんだ。そしてレベッカも近くに腰を下ろす。放し飼いにされている牛達は、少し離れた場所で草を食んでいる。
「こういう暮らしもなかなか良さそうだな」
「のんびりしてるように見えて、実は結構忙しいけどね」
 隣で明るい笑い声を立てる。今日は牧場を案内してくれていたが、普段は牛の世話や親の手伝いなどで忙しいのだろう。
「確かに、都会の暮らしとは全く違うでしょうね」
 彼女も草の上へ体を預ける。並んで見る空は、昨日の嵐が嘘のように晴れていた。
「私達が守らなくちゃならない物はこの牧場だけよ」
 そんな風に、どれか一つだけを追い続けていたら、俺はそれを手に入れることができたのだろうか。
 俺は欲張りすぎたんだ。一つの物を掴もうとするだけで精一杯だったのに。
「満足していないって顔ね。いいじゃない、これからやっていけば」
 彼女は俺の思考を察したように語りかける。今朝俺が言ったことを覚えていたのか。
「…そうだな」
 もう一度、やり直してみよう。一つずつ、順番に掴んでいこう。望むこと全てをやりきれる時間があるかはわからない。それでも、あきらめようとは思わない。
 今度は、できるかな。

 
 ポプラ並木の向こうの方から牧歌が聞こえてくる。広い緑の海に響き渡るホルンの音。
「お父さんだわ。きっと」
 レベッカが体を起こす。「そろそろ戻りましょう」と言って彼女は響く音の方へ歩き出した。
「毎日同じようなことを繰り返しているから、あなたみたいに色々なことをやってるのは少し羨ましいわ」
「此処の生活もいいけどな。街とはまた違う良さがある」
「ええ、私は此処が好きよ」
 でも、あなただって自分の生活が楽しいでしょう?
 そう訊かれ、少し考えてから笑みをこぼした。
「…そうだな、今までやってきたことは無駄にはならないし、自分の好きなことをしてるんだ。そりゃ楽しいさ」


「それじゃあ、お世話になりました」
 複葉機の側に立つ二人に会釈をする。二人は微笑んで手を振ってくれていた。
「さようなら」
 レベッカの言葉に軽く頷いて、複葉機を発進させた。プロペラの回るスピードが段々加速していき、機体がふわりと浮かんだ。
 旋回させて、二人の側をもう一度通り、操縦席から大きく手を振った。彼女が手を振り返してくれたのが微かに見えた。

 君が地上から見上げる飛行機のどれかに俺が乗っている。ここの上空を飛ぶときは、たとえ見えないとしても君に手を振るよ。もしかしたら気付いてくれるかな。



文化祭特別号『ff』ω掲載
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