蒼珂燐 門の側に立ち、目的の人を見つけると俺は軽く手を振った。 「あら、リヨン」 その人は俺の姿を見ると愛想良く笑った。この屋敷で俺は雑用をして、その報酬にいくらか貰っている。今日ここへ来たのもそのためだった。 「こんにちは。アーネストさん。今日も何か届け物はある?」 「ええ、これをお願い」 そう言って一通の手紙を差し出した。それを受け取り、宛名を確認すると上着の内ポケットにそっと入れた。 「わかった。すぐ届けてくるよ」 彼女に手を振って走り出した。手紙は隣町のクリスト家宛。ここからはそう遠くない。それに、その家には俺も用事があった。 途中で立ち止まり、所々黒ずんだ帽子を目深に被り直した。この貴族が行き交う表通りの中で、俺は明らかに浮いている。そんな景色を視界に入れたくはなかった。 見慣れた大きな屋敷が見えてくると、俺は走る速度を緩めた。 門をくぐり、広い庭を通り抜け、無駄に装飾された扉を叩いた。暫くすると足音が聞こえ、屋敷の主が顔を出した。 「こんにちは、オスカーさん。アーネストさんから手紙です」 ポケットから出した手紙を差し出すと、人の良さそうな顔がほころんだ。 「ありがとう。じゃあルアンのところに行ってくれ。君が帰る頃には返事を書いておくから」 「分かりました」 「やあ、リヨン。待っていたよ」 安楽椅子に座ったルアンは嬉しそうに目を細めた。病気だか事故だかで足が動かなくなってから、話し相手として俺が雇われている。前に手紙を届けに来たときに何故か彼に気に入られたのだ。話し相手と言っても、向こうが一方的に喋るので、俺はそれに相槌を打ったり時々意見を言うだけだが。 彼の話の内容は、蒸気機関の仕組みや、神話、外国の文化など、中には興味を引くものもあったが、およそ俺の生活には関係なく、到底理解できるものではなかった。 一度、彼にこんな事を覚えてどうするのか、と尋ねたことがある。俺には関係が無いとも言った。すると、彼は微笑みながらこう言った。 「君のためだよ、リヨン。君は貴族を嫌っていて自由を求めているんだろう? これからの時代は家柄だけでなく実力が必要になってくる。その時、色々な知識を持っていれば、指導者の側に立つのも夢じゃない。君の望むものを手に入れることができるんだよ」 彼は何かを話すとき、目を細めて穏やかに笑う。けれど、俺は何もかも見透かしたような言動も、心の奥が見えない微笑も気に入らなかった。何を考えているのか、さっぱり分からない。その穏やかな顔の裏で、笑っているのか、 それとも嗤っているのか。 彼の話し相手をするのは労働としては一番楽だったが、精神的には一番疲れた。 賑やかな表通りとは打って変わって、この裏町はいつでも薄暗い。寂れて活気が無く、酒の匂いがどこからともなく漂っていた。それでも、この生まれ育った町が嫌いではなかった。 その中の古い煉瓦造りの家へと入る。木製の扉が軋んで音を立てた。 「ただいま」 「おう、おかえり」 親父が気怠げな声で返事をした。 仕事がないときはいつも家で酒を呑んでいる。今日もそうだったのだろう。酒瓶とグラスのぶつかる音がする。 「そういえば、工場で聞いた話だが、隣のエミールが目を覚まさないらしいぞ」 「へえ…どれくらい?」 この裏町で病気になる奴は珍しくない。俺は大して興味も持たず適当な相槌を打った。 「確か、今日で五日になるって言ってたか」 「五日も?」 「けど、心臓はちゃんと動いてて生きているらしい。ただ、目を覚まさない。」 そこで親父は新たな酒を注いだ。琥珀色の液体がグラスの中で波紋を作る。俺は床に座って帽子を置いた。 「…何が原因なんだろうな」 「さあな。ま、目を覚まさない方がいいかもな。生きてても職には就けないし、上手く雇ってもらったとしても資本家に倒れるまでこき使われる」 そう言ってどこか投げやりに笑い、酒をあおった。 ある日、アーネストさんの家に行っても、彼女の姿は見えなかった。いつも彼女は決まった時間に庭に出てきているはずなのに。仕方がないので無断で門をくぐった。見つかっても説明すれば分かってくれるだろう。 家の周りを壁沿いに歩くと、女性の声が聞こえてきた。彼女の声だ。俺は近くの窓に近づき、耳を澄ませた。部屋の中には複数の人がいるらしく、男性の声も聞こえた。 会話の内容までは上手く聞き取れないので、窓から中の様子を覗いた。アーネストさんと、医者のような男。そしてその間に男が一人ベッドの上に横たわっていた。彼女の夫のユーグさんだった。彼の側には何処から紛れ込んだのか蝶が一匹留まっていた。 医者が一礼して部屋を出て行くと、彼女はベッドの端に突っ伏して、…多分泣いていた。 彼女が顔を上げた拍子に窓から覗いていた俺と目があった。なんだか見てはいけないものを見てしまったような感じがして、俺は反射的に走り出した。 「リヨン!」 背後からの呼びかけに振り向くと、彼女は窓から身を乗り出していた。彼女の目が少し 赤かった気がするが、すぐに目を反らしたので、見間違いかもしれなかった。 「来てくれてたのね。ごめんなさい」 「…その、ユーグさんは…?」 話題にするべきかどうか迷いつつ、他に掛ける言葉が見つからなくて、俺は俯いたままさっき見たことを尋ねた。 「…目を覚まさないの。体の何処にも異常がないのに、何故か意識が戻らないの」 彼女の口調は寂しそうで、 でも諦めも入っていたように感じた。 普段は良く通る声が、少し掠れていた。 「…どうしたらいいのかしら、リヨン…」 そんなこと言われても、俺にだって分からない。 「いらっしゃい、リヨン。今日は何か変わったことはあったかい?」 彼はいつものように俺を迎え入れ、目を細めて俺に尋ねた。 「目覚めなくなる?」 「ああ。裏町でも何人かそんな人が出てる。」 「そう言えば父さんから同じようなことを聞いたな」 俺は親父から聞いたこと、あの屋敷で見たことをできるだけ詳しく話した。ルアンなら何か分かるかと頼る気持ちもあった。 「ふーん…」 ルアンは目を瞑り、背もたれに体重を掛けて安楽椅子を揺らした。彼が何か考えるときの癖だ。黙ったまま彼は腕を組んで、更に二、三度椅子を揺らした。 「ねえ、そのユーグさんって人。その人の側に蝶はいた?」 「は?」 いきなり何を言うのか。 「確か…いたな。けど、それが何か関係あるのか?」 彼は声を立てず静かに笑った。 「前に蝶について話したことがあったよね。よく思い出してごらん。…まずはその蝶を捕まえることだ」 その次の日は、特に何もすることがなかったので、石段に座ってただぼうっとしていた。これからどうしようかな、なんて考えながら。ルアンが言ったように、蝶を捕まえることも考えた。けれど、 偶然に見つかったのならともかく、広い街の中で一匹の蝶を探し出すなんて骨の折れること、大して親しいわけでもない人のためにしようとは思わなかった。 夕暮れが近づいて、家の中に入ろうとしたときだった。 ふと、目の前を何かがよぎった。 見上げてみると、それは蝶だった。少し角張った翅は黒と深い青色をしている。 薄く光を放つ姿はまるで光の粒でできているかのようで、実体がないようにも見えた。 ユーグさんの蝶だ。 その蝶は、ひらりひらりと、どこかを目指すように進んでいく。何故か、不意にアーネストさんの顔が思い浮かんだ。あの人は、今も彼が目覚めるのを待っているのだろうか。 「……」 少し躊躇った後、あの蝶の後を追いかけた。捕まえられるかは分からない。とにかく、見失わないように。 日が落ちて、元々日の当たりにくい裏町が更に薄暗くなる。 まばらにある街灯に仄かな火が灯った。 暗闇の中を進む、小さな光を見失わないように、ただ走った。 走って追いかけている内に、町の外れの方までやってきた。そこには花畑の広がる丘があり、だんだん暖かくなってきたこの季節、所々に赤や黄色の花が咲いているのが目に入った。 そしてあの蝶は丘の中の東屋へ入り、そこで止まった。 静かな建物の中へと足を踏み入れる。蝶は、長椅子に留まり、ゆっくりと翅を動かしている。触れれば消えてしまいそうな、実体のない姿。――思い出した。ルアンが前に話していたこと。 蝶は、魂の象徴。 じゃあ、ユーグさんの魂が蝶となって体から離れたから、目覚めなくなったって言うのか? そんな嘘みたいな話、信じられない。 「……ユーグさん?」 返事が返ってくるとは思っていなかった。そのまま飛び去ってくれた方が、気が楽だったかもしれない。 蝶に話しかけるなんて莫迦みたいだと、笑って済ませられたのだから。けれど、 言葉は返ってきた。 「…ユーグ…何処かで聞いた名だな」 低くて落ち着いた声が耳に届いた。 それは確かにユーグさんの声だった。いや、声とはまた少し違う。 蝶が話すわけがないのだから。 俺は帰ってきた言葉の内容に驚いた。それはあんたの名だろう。と言いそうになるのを抑えて、相手の続きを待った。やや間があってから、再び声が聞こえた。 「ユーグ…そうだ、確か夢の中で私はそう呼ばれていたな…」 「…夢?」 「…長い、夢を見ていたような気がするよ。その夢の中で、私は父親から受け継いだ工場を発展させるために四苦八苦していたな。」 遠い昔のことを懐かしむような口調だった。今の自分とは何も関係がない、とでも言うように。何故か妙に腹立たしくなって、怒るように口を開いた。 「…それは夢じゃない。現実であんたがしていたことだろ」 「いや、夢だよ」 彼は長椅子から離れ、東屋の中をふわりと飛んだ。東屋の暗闇と、翅 の漆黒が融けて混ざった。青だけがくっきりと見て取れた。 「今が現実だということははっきり分かるからね。今までがきっと夢だったんだ」 「…本当に、その姿で満足なのか?」 そんな姿では何もできないだろう。今までならできた色々な趣味、仕事、友人との会話。そんなもの全て。 「満足だよ。この姿では夢の中のように何かを成すことはできない。けれど、それでも自由だ――」 彼は東屋から出て花畑の上を飛び回った。三日月の透きとおった月光を浴びながら舞遊ぶ姿を見て、俺はそれ以上動けなかった。 自由――それは俺たちが最も望んでいたものだから。 その日、俺は踵を返してそのまま家へと帰った。掛ける言葉が見つからなかった。翌日からは、いつものように工場で働いたり、ルアンの家に行ったりした。…アーネストさんにも、彼のことは告げないまま。 今日も仕事を終え、裏町へと帰ってきた。空が曇っているせいか、町には更に陰鬱な雰囲気が漂っていた。木製のドアは湿っぽい空気を吸って立て付けが悪くなっている。俺はそれを少々乱暴にこじ開けた。 「ただいま」 中から返事はなかった。暗い部屋では人がいるのかどうかすら分からない。珍しく働きに出ているのかと思ったが、奥の方 から微かに酒の匂いがした。 「親父、いるのか?」 奥の方へと足を進める。歩く度に床が嫌な音を立てた。半開きになっていた扉を開けると、転がった酒瓶が目に入った。それと投げ出された腕も。 嫌な予感がして親父の側に駆け寄った。それは壁により掛かって寝ているだけのようにも見えた。けれど、違う。規則正しく呼吸はしているけれど、これはいつもの寝顔じゃない。 「親父?」 そっと手を伸ばして肩を叩いた。いつもなら、ここで起きるはずだ。しかし、バランスを失った体は右へ傾き、ゆっくりと床へ倒れ込んだ。眠っているような表情は変わらずに。 「……親父?」 側の窓枠から、黄色い翅の蝶が飛び立った。 今、親父は自由を手に入れられたのかもしれない。けれど、俺たちが望んでいた自由は、そんな何かに背を向けて逃げ出すようなものじゃなかったはずだ。 俺は走ってあの丘まで来ていた。蝶が集まるとしたら此処だ。東屋の辺りをうろつきながら周辺 を見渡した。すると、少し離れた場所で飛び回る蝶を見つけた。青い翅の蝶。ユーグさんだ。 足音を立てないように近づき、素速く手を伸ばした。何度か手が空を掴み、数十回目でやっと捕らえた。手の中で抵抗して暴れる感触がしたが、構わなかった。今度は逃がすつもりはなかった。 そして 俺はすぐに屋敷へと向かった。 JACKPOT55号掲載 背景画像:ひまわりの小部屋様 |