胡蝶の夢 後編
 
蒼珂燐


俺は薄闇の中をひたすら走った。
蝶となり自由を手に入れたユーグさんを、俺は捕らえ無理矢理戻そうとしている。
俺の選択が正しいかは分からない。
ただ、間違っているとは思わない。

「俺には夢があるんだ」
ユーグさんにだけ聞こえる声で俺は彼に話しかけた。まだ彼は俺の両手の間で外に出ようともがいている。
「叶えたい夢が。…だから俺はこの世界で生きていく」
叶えられるかどうかは分からない。でも、諦めたら絶対に叶うことはない。それに、目標無しでこの世の中を生きていく自信は無かった。
「君は…自由になりたくないのか?」
「なりたいよ。けれど、俺が望んでる自由はあんたが掴んだものとは違うんだ」
手の隙間から届く彼の声はか細い。自分がどうするべきか、迷っているのだろう。俺はなだめるように声を掛けた。
「…あんたにも、夢があったんじゃないのか?」
「……」
俺は更に畳み掛けた。
「それに、あんたを待ってる人がいるだろう」
手の中の蝶は暴れるのを止めた。

屋敷に着くと、アーネストさんの居る部屋を探した。前見た部屋で彼女は一人読書をしていた。ユーグさんがいつ目覚めてもいいよう、彼の側で。
「アーネストさん!」
外から呼びかけ、窓を両手で叩いた。すぐに彼女は驚いた顔して窓辺へ寄ってきた。
「どうしたの、リヨン。…こんな夜に」
「ユーグさんの居る部屋に入れて貰える?」
「え、ええ」
彼女はよく状況が飲み込めず戸惑っていたが、詳しく説明する気も時間もなかった。言って信じてくれるかは分からないし、今大切なのはそんなことじゃない。
屋敷の中へと通してもらい、部屋の中に入った。中ではユーグさんが目を閉じて眠っている、ように見える。手を離すと、両手の隙間から一匹の蝶がふわりと現れた。その蝶はユーグさんの周りをうろうろとしていたが、やがて体の方に寄っていった。そして拡散して光の粒となり、消えた。
魂が体に戻ったのだろう。ユーグさんがゆっくりと目を開いた。
「ユーグさん。今の状況は分かりますか」
彼は辺りを見回し、はっきりとした口調で告げた。
「ああ、…今が現実だ」
ユーグさんは無事に目覚めた。次は親父だ。

また、丘へと向かった。蝶を求めて。そこには、思ったよりも多くの蝶が居た。
いつの間に、こんなに増えたのだろう。こんなに多くの魂が、自由を求めたのだろうか。
夜空に浮かぶ満月に蝶の群れの影が重なる。足下には色とりどりの花が、山の方から吹く風に揺られている。聞こえるのは、梢が擦れて立てる音だけ。
その様子は幻想的で、でも言いようのない恐怖に駆られた。
親父の蝶を探して、早く家に帰りたいと思った。蝶は、数は多いが形や色がそれぞれ少しずつ違う。父親の蝶を特定するのはそう難しいことではなかった。群れを外れ一匹漂っている黄色く小さい蝶に、できるだけ音を立てずに忍び寄る。そしてその蝶を捕まえようとした。けれど、蝶は手の中になかなか収まらず、俺はむきになって追いかけた。掴もうと、手を伸ばす。
何度も、何度も。
黄色い光は手を掠め、空へと上っていった。
俺の手の届かない所へと。

ルアンの部屋で、俺は長椅子に座っていた。彼は相変わらず部屋の真ん中に陣取り、安楽椅子を揺らしている。
「実を言うとね、君もいなくなるんじゃないかって思ってた。」
「俺が…この世界から逃げるとでも?」
ただでさえ機嫌が悪いというのに更に不愉快にされ、軽く睨み付けてやったのだが、向こうの表情は変わらない。
「そうなってもおかしくはないとは思っていたよ」
「……」
「だから、君がまた来てくれて安心したんだ」
暖炉の炎がはぜる。薪が崩れ、灰が積もる。
「それで、君はどうするつもりだい? 君のお父さんも目覚めないようだし、他にも蝶となった人は沢山いるんだ。とてもじゃないけれど、ユーグさんのときのように一匹一匹捕まえるわけにはいかないだろう」
父親の蝶だけ捕まえて、後は見捨てるってこともできるけどね。その口調は気楽だったが、彼の目は笑っていない。相手の動きを探る目つきだ。俺を、試そうとしているのか。
「…俺は――」


紡績機の音が途切れなく聞こえる。ルアンの乗った車椅子がその間を巡回し、労働者の様子を見ている。彼は頃合いを見計らって休憩の合図をかけた。そして入口にいる俺の方へとやって来る。

「君は何故この方法を選択したんだい?」
 作業場から事務室に移動する間にいきなり問われ、彼の少し前を歩いていた俺は立ち止まり振り返った。が、すぐその意図を汲み取りまた歩き出した。
「…確実だと思ったからだ」
「辛抱強く待てる人なんだね。君は。けど、この方法もそれ程確実なわけでもないって、分かってたんだろう?」
 音が廊下の中で反響する。彼の声は心なしか楽しそうだ。
「そうだな。でも、どうするかを決めるのは彼ら自身だ。だから無理強いみたいなことはしない」
「…成る程ね」
「それに」
「なんだい?」
俺はルアンの方を向き、正面から見据えた。彼は車輪を手で押さえ、車椅子を止めた。
「辛抱強いと言ってもお前程じゃない。…お前は、最初からこうするつもりで俺に色んなことを教え込んでいたんだろ」
ルアンは、その問いにはただ笑うだけで答えなかった。
俺は、あの時のことを思い出していた。

彼の部屋で、暖炉の火の光を受けながら俺が言った言葉。
「普段の生活に耐えられなくなったというのなら、この世の中を変えればいい。そうすればいちいち捕まえなくても自ら戻ってくるだろう」
「…それが君の出した答えなんだね」
「ああ。俺は世の中を変える方を選ぶ」
 世の中を変える、というのは蝶に成り変わった人達の為ではなく、以前から俺が願っていたことだった。貴族の下で働くのではなく、対等の立場で。――それが俺の望みだった。
 ルアンは胸の前で指を組み、満足そうな顔をすると、椅子を揺らすのを止めて話し始めた。
「じゃあ、君には将来僕が継ぐことになる会社を一緒に運営して欲しい。僕はこの通りの体だからね。色々と不便なことがあるんだ。…だから、君に協力してもらいたい。この世の中を根底から覆すことはできないけれど、多少なら改善することができるよ」
 そう話すルアンの表情を見ていると、何だか彼の思惑通りに乗せられてしまった気がして、悔しかった。これでは今までと変わりない。
「…わかった。けど、俺はお前の手足となって動くわけじゃないからな」
彼の足が不自由だとしても、関係ない。彼はそんな障害をものともしない力くらい、持っているはずだ。
ルアンは指をほどき、肘掛けの上へと載せた。全てを見透かすあの瞳が、笑った気がした。
「うん、わかってるよ。僕が君を利用しようとしているように、君も僕を利用すればいい。君の望みのためにね」


その後別の作業場を見に行き、その中の一角へと向かった。そこでは、金属で細かい部品や大量生産しないものなどを作っている。作業をしていた一人に俺は声を掛けた。
「親父、調子はどう?」
作業したまま振り返らずに親父は答えた。
「順調だ。製品、こんな感じでいいか?」
明るい声でそう言って、傍らにあった箱を指さした。俺はその中から部品を一つつまみ上げ確認した。
「うん、良いと思うよ。後で担当者に回しておいて」
「わかった」
かつてしていた職人に復帰できて、親父は本当に嬉しそうだった。誇らしげに作業を続ける彼の背中に話しかける。
「親父、ここで働き出してからは体調良さそうだな。昔倒れたことがあったから心配したけど」
「ああ、今は気分がいいよ。夢を見ていたときより、ずっと」
それはそうだろう。

夢は夢でしかないのだから。



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背景画像:空に咲く花

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