冬の華
 
蒼珂燐


その小道を通ったのは、ほんの偶然だった。

ある日、私は長い間会っていない友人の家に遊びに行った。お互いの昔のこと、今のことを少しの間語り合い、あまり長居をせず友人と別れた。
友人の家から帰宅する途中、ふと、裏路地が目に入った。石畳の道がいくつにも枝分かれしている。秋の終わりとはいえ、日が落ちるにはまだ早い時刻。私はその道を探検してみようと思った。
曲がりくねった道を、気の向くままに歩く。袋小路に入る事もあったが、それさえも楽しくなってきた。しばらく歩くと小さな公園に出た。幼い子供達が何人か仲良さそうに遊んでいる。そして脇には森へとつながる道。誰も通ろうとしない小道を、私は迷わず選んだ。
森の中は光が薄れて薄暗い。その上、少し霧も出てきた。その中へ入るにつれて、音が聞こえてくる。
かすかなヴァイオリンの音に誘われて、草木を掻き分け進んでいく。これは確かフォーレの「シシリエンヌ」。流れるような旋律が美しい、どこか物憂げな曲。この曲は、シチリア舞曲とも呼ばれるらしい。けれど私には深い森の中を連想させる。丁度、この森のような。
音が近くなってきた、と思ったら視界が急に開けた。森の中の湖のほとりで、女性が一人ヴァイオリンを弾いている。長い黒髪が、風が吹くたびに揺れる。
彼女が何故このような所でヴァイオリンを弾いているのかは分からない。ただ、彼女も、奏でる音も、美しいと思った。

その後も私は森に足を運んだ。また、彼女が居るかもしれないと思って。気まぐれで歩いた道で、正確な道順を覚えていなかったため今回も少し迷ってしまったが。見覚えのある道をたどっていくと、前の森へ入る道を見つけた。
音を立てないよう枯れ葉を避けながら湖の所へ行くと、そこに彼女はいた。純白のドレスを身に纏う彼女は、どこか儚げで。
彼女は楽器を持つと、演奏を始めた。木漏れ日で金色に光る弦の上を、弓が軽やかに滑る。今日、彼女が弾いているのはドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。岬で一人の少女が祈りを捧げているような、そんな音楽。これは「スコットランドの歌」という詩集から影響を受けて作曲されたらしい。その詩の中に出てくる桜桃の唇をした美少女は、一体何を思うのだろう。
私は彼女の側に何かがあるのに気付いた。それは蕾だった。周りに似たような花は無く、その蕾だけが一輪風に揺られている。
彼女が曲を弾き終わると、翠色だった蕾は透きとおった硝子の色に染まった。

休日は森に来て、彼女の音楽を聴くのが習慣になってきた。もう道は正確に覚えていて、迷うことはない。自宅からそう遠くないというのもあり、時間があればこの道を通るようになっていた。
その日はフォーレの「夢のあとに」。過ぎ去ってしまった愛しい人が夢に現れ、しかしその幻想はすぐに終わってしまう。その後、あの夢をもう一度、と懇願する切ない歌。その旋律のせいだろうか。湖に向かって演奏している彼女が、泣いているように見えた。私からは彼女の背しか見えなかったけれど。
枯れ木の多くなってきた森に、夕日が差し込む。光は枝の間を通り、湖の中へ溶けこんだ。そして湖は紅く、緋色に。
蕾は悲しみの藍色に染まった。

蕾は、日を追うごとに少しずつ膨らんでいる。彼女は、あの花を咲かせようとしているのかもしれない、と思った。けれど、季節はもう冬に入っている。この時期に、あの花は咲くのだろうか?

彼女の音楽を、私はもっと近くで聞きたいと思った。いつも、少し離れた所で聞いているだけだったから。気付かれないように極力音を立てずに歩いたつもりだったが、落ち葉で覆われた地面を歩くと、葉と葉が擦れてかさかさと音を立てた。その音を彼女は聞きつけ、こちらの方を振り返った。
目と目が、合った。
私が目を反らそうとする前に彼女は私にほほえみかけてきた。
「そんな所で聞いていたの?」
決して彼女は私を責めているわけではないのだが、なんとなく、気まずくて顔を背けてしまう。それにしても、急に現れた私を不審に思ったりはしないのだろうか。
「…すみません」
それでも彼女は笑顔のまま。
「いいの。聞き手がいると音楽はまるで違ってくるから」
そこに座って、と促され、私は側にあった岩に腰掛けた。彼女はそれを見届けると、ヴァイオリンを構え、再び音を奏でる。それは、エルガーの「愛の挨拶」。エルガーが妻のアリスのために作曲し、贈りものとした。全てを包むような暖かい雰囲気の曲だ。
その日は、私はずっと彼女の側で彼女の音を聞いていた。この前とは違い、彼女は心から楽しそうに弾いている。
蕾は優しい橙色に染まる。
 
私は、彼女の音楽を、ずっと聴いていたかった。けれど、あの花が咲いたら、彼女はあそこでヴァイオリンを弾くのをやめてしまうかもしれない。そんな予感がした。
いつまでも、蕾のままでいてくれたらいいのに。

ある日、私は走って湖まで行った。何故か、急がなければならないような気がしたのだ。吐いた息が白く濁り、私の視界を邪魔していた。まるでいつか見た霧のようだ、と思った。小枝に服の袖が何度か引っかかり、益々私は焦った。早く行かないと、彼女が消えてしまうような気がして。
湖のほとりに着いたとき、音は鳴っていなかった。いつも彼女がいた場所に目をやると、蕾は開いて、花を咲かせていた。
彼女はというと、その花の側にしゃがみ込んでいた。そして彼女はその花を愛おしそうにしばらく眺めた後、迷いもせず摘み取った。こちらを向いた彼女は、私がここに来ることを予想していたように見えた。白く、しなやかな手が私の方へ差し出される。差し出された花は翠に、透明に、藍色に、そして橙色に、染まっている。

もし、私がここに来ていなかったなら。
その華は、あなたの音は、誰のために。

私は、その花を受け取るしかなかった。
彼女は、再びヴァイオリンを持つと、ショパンの「別れの曲」を弾き始めた。ああ、きっと彼女はもうここへは来ないのだろう。私は、花が咲いたことも、その花を彼女から貰ったことも嬉しいとは思わなかった。ただ、彼女の音楽が聴けなくなることが、淋しかった。
原曲の題名は「別れの曲」では無かったが、悲しみという意味の題が付けられていた。彼女はいつだって感情豊かにヴァイオリンを弾いていた。今も彼女はその曲が持つ感情と同調しているのだろう。優雅で美しく、そして愁いを帯びた旋律がこの森の中に流れていく。
音が止んだとき、そこには私以外もう誰もいなかった。
…夢だったのかもしれないと感じた。けれど、私の手の中には手折られた花がまだある。
しかし無常にも風は花片を攫い、湖面へと落とした。その一つ一つが水の中へと沈む度に、ある場面が水面に映し出される。それは、彼女が音を奏でている姿ではなく、勿論、私の姿でもない。
私が持つ、その曲のイメージ。私が頭の中で紡いだ物語と、彼女の優しい音楽が混ざり合った、どこでもない所。まだ草が茂っている森、一人の少女が立っている岬、泣いている若い男性、暖かい家庭。そんな様子が、次々と現れた。
私は、それにずっと魅入っていた。
やがて、茎だけしか残っていない花は、黒ずんで崩れるように枯れた。これで、彼女が居たという痕跡は本当に無くなってしまった。
彼女は一体何処へ行った? それ以前に彼女は存在したか?
周りを見ると、木々の葉は落ちて、幹だけが残っている。空は雲に覆われ、暗い色になっている。今にも降り出しそうだ。雨か、この寒さだと雪か。

――さあ、玄い冬がやって来る。


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